「知る」「わかる」という意味の変容 〜「頭」でわかるか、「体」でわかるか〜


まあ、地球が滅びる説はノストラダムスの時に懲りてるので置いときまして、


「次元上昇」というのはちょっとあるかもなー、


わからなくはないなーというのが今回の私の立ち位置です。


日本が世界に誇る偉大なアニメの例を借りると、


ガンダムで言うところの「ニュータイプ


 ※ガンダムを食わず嫌いの方がいたら是非この機会に
  時間がない人のためのガンダムシリーズを見てみてください。

  http://www.youtube.com/user/JapanAnime555#p/c/827AF95807CA4964/0/ElW91Cgt0Tg

  5分55秒という短時間にまとめられているのにすげー良く出来てます。
  名台詞も網羅してるし、超オススメです。


エヴァンゲリオンでいうところの「シンクロ率の上昇」


もしかしたら聖闘士星矢(セイントセイヤ)の「コスモ(小宇宙)」


いや、それをいうなら5感を超えた第7感「セブンセンシズ


なんかが理解しやすい次元上昇の例なのかもしれません。


たぶんビートルズなんかも歌詞で似たようなことを言っていたような気がするけど、


まあ、簡単に言っちゃうと、時間、空間を越えて「目覚めてる人たち同士」は


コミュニケーションが自然と取れてしまったりする状態ってことですよね。


インターネットや電波などのテクノロジーを必要とせずにって感じにね。


たぶん、時間を越えると4次元になり、さらに空間も越えるから5次元になると。


個人的には、仮に次元上昇してもそこまではいかないだろうと予想。


でも、もうすでに、「目覚めている人」というか「気づいている人」というか


「わかっている人」というか、そっち側の人とそうじゃない人という分化は、


なんとなく、この10年、もしかしたらもっと長いスパンで進んできているような気がします。


その分岐点のひとつが「情報」に対する姿勢というか距離感の取り方だと思います。


世の中が「情報化社会」と呼ばれるようになって久しい。


知りたいことはネットで検索すればたいがいのことはわかります。


さらにはマスメディアが伝えないような情報もネットで検索すれば、


本当かウソかは自分で判断しなければならないとはいえ、手に入れられるようになった。


それはそれで喜ばしいことだ。


でもそれは「頭」で知識として「わかった」つもりになっているだけのこと。


かもしれません。


そんな薄っぺらい「情報」の蔓延に対する潜在的な嫌気のようなもの


それが2012年にアセンション(次元上昇)が起こるという「空気」を


生み出しているのではないでしょうか?


一方で、自分で何かをやろうとして「体」を動かした結果、「肉体」を通じて手に入る


「皮膚感覚」を伴う「情報」とは、よくも悪くも別物のような気がします。


「頭」でわかることと、「体」でわかること。


一番、大きな違いは、「体」で手に入れた「情報」は「感じかた」を伴うということです。


実はこの「感じかた」(自分が何をどのように感じ、何を大事にすべきなのか?)という情報の蓄積こそが、


情報が無数にあふれる、この情報化社会で本当に価値のある情報として生き残っていくもの


であるような気がします。


このことに気がついている人、わかっている人、大げさに言えば目覚めている人たち同士が、


お互いに惹かれあい、認め合い、なんらかの集合体のようなものを形成したとき、


そのことに気づかなかった人たちとの間に明確な違いが生まれてくるかもしれません。


ところで、この「感じかた」という思想は、自己流の解釈ですが、


元になっているのは、鶴見俊輔という人の考え方です。


学ぶとは何だろうか―鶴見俊輔座談

学ぶとは何だろうか―鶴見俊輔座談


と、ここで、とてもよく本を読んでいる


信頼度の高いサイトの書評を引用します。


http://toueironsetsu.web.fc2.com/booktoday/bt200202/bt0202main.htm


(書籍之海 漂流記 2002年2月3日から 一部引用開始)


「書かないことが書くことの中心にあり、話さないことが話の中心にある。


 書く当人自身が書けないことがのこり、話す当人が話せないことがのこるというだけでなく、


 書く当人が書かないと自分できめていることがあり、


 話す当人が話さないと自分できめていることがある」


(「書かないこと、話さないこと――あとがき」から)


鶴見氏は、だから、ある人間が書きたいあるいは話したいと思うことについて


書いたり話したりしないことに注意することが逆にその人間の思想を解く鍵になるとしるしている。


しかし私には、鶴見氏は、‘書く当人自身が書けないこと’、


‘話す当人が話せないこと’により注目の重点が向いていると思える。


というより、氏は自分を含めた人間の、‘書く当人自身が書けないこと’、


‘話す当人が話せないこと’を何とかそのままで――あるいはせめて


‘形のきれはし’として片鱗だけ姿をとって表れたものを――、


自身の哲学大系に組み込もうとしているのかもしれない。


だから矛盾をおそれないし、矛盾した、あるいは支離滅裂で


混乱した精神の人間にも隔意なく接するのであろうか。


論理的思考以前のひらめきを重視するがゆえに。


 これを氏は、‘感じかた’という。


「(自分のベトナム戦争反対の意見は)ベトナムアメリカが侵略することはないんだから、


 アメリカは自分の意見を押しつけないほうがいいという感じかたから出発している」(35頁) 


 氏は「あとがき」で記す。ルードルフ・カルナップは、


‘哲学から論理か経験かによってたしかめることのできない命題を追放することを提案し’、


‘解決できない問題を全部なくしてしまおうとした’。


 それは、‘認識できないことを世界から追放しようとした’ということである。


 その結果、‘わからないけれどもおもしろいという感覚’は、彼の哲学には縁がなくなったと。(同、441頁)


‘わからないけれどもおもしろいという感覚’という概念が、氏を理解する鍵なのかもしれない。


 もうひとつ、これは対談相手の河合隼雄氏の言葉だが、


‘首尾一貫していないけれどもちゃんとできている’(373頁)という言葉もそうかもしれない。


 氏の眼中には、論理的整合性はないのだろう。すくなくとも最重要課題ではない。


「(全体的な視点の獲得は)論理的無矛盾性という


 アリストテレスあたりの論理学にしばられているとできない」(372頁) 


 氏の社会活動家としての政治に関わる発言には首肯しかねるところもある。


 しかし、哲学者もしくは一個の思考する人間としての氏からみれば


 社会活動家としての氏は一部、それも末端の一部にすぎない。


 それをもって全体を云々すべきではないようだ。


(引用ここまで)


この書評サイトを読んでるだけでもすごく面白いしためになるのだが、


話を戻すと、この鶴見俊輔という人は本当にすごい人だと思う。


ちょっと「憲法九条を守る会」とか「ベ平連」とかの社会活動における立ち位置のせいで


その思想というか哲学というか考え方まで無視されるには


あまりにももったいない人だと個人的には思う。


ちょっと前に紹介した吉本隆明さんとガチでやりあえるのは


たぶんこの人ぐらいしかいない。


http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20091028


悪人正機 (新潮文庫)

悪人正機 (新潮文庫)


火花を散らす鶴見氏と吉本隆明氏の対談数本が収録されているのが下の本。


「言葉と精神の闘いであるのに、真剣で斬り結んでいるかのような凄みがある。」


とは、前出の書評サイトの人の弁。オススメです。


思想とは何だろうか (鶴見俊輔座談)

思想とは何だろうか (鶴見俊輔座談)


大抵のアホな知識人ども(ほとんどの文系学者を含む)は、


上からの立場でしか社会(さらには人間)を考察できないけど、


吉本隆明鶴見俊輔だけは違う。


ちゃんと「大衆」という一般ピープルの視点から社会(および人間)を考察できる


稀有な存在なのだ。そしてその観点から言えば、そのすごさは、


鶴見俊輔さんの方が、吉本隆明さんを上回っていると個人的には思ってます。


鶴見さんのいう「消費者主権」という考え方にも


http://www.jca.apc.org/beheiren/saikin26tusurumi-shouhishashuken.htm


現在の困った状況(不景気とか、そこから生まれる戦争の危険性)を


乗り越えていく何らかのヒントがある気がする。


まあ、通りすがりで気になった人がいたら騙されたと思って


鶴見俊輔の本でも一冊読んで見てくださいな。


オススメは、上記の本のほかに、


戦後日本の大衆文化史―1945‐1980年 (岩波現代文庫)

戦後日本の大衆文化史―1945‐1980年 (岩波現代文庫)


まあ、本題に戻ると、結局個人個人のレベルでは


やれることをやっていくということ以上のことは出来ないので、


それぞれが、ただ「頭」でわかるだけでなく、


ひとつでも多くの「体」でわかるというな経験を積み重ねていって


それぞれの「感じかた」を磨いていく。


それが出来ている人は仮にアセンション(次元上昇)という波が


押し寄せてきても、あたふたせずに生きていけるのではないか?


そんな気がした。というだけのことです。


あと、終末論つながりでいうと、伊坂幸太郎の小説「終末のフール」は


とても面白いです。


終末のフール (集英社文庫)

終末のフール (集英社文庫)


8年後に地球が滅びるというニュースが流れ、


どうやら本当らしいってことでパニックになる人間たち。


5年が経過し、そのパニックが一時的に収まったかのようにみえる


とある仙台のニュータウン。3年後には世界が滅びるという状況で


人はどんなふうに生きていくのか?


個人的には、最終章のお父さんのセリフが好きですね。


(以下、ネタバレ注意)


ベースはキチ○イで何も怖いものがないように振舞っているお父さん。


そのお父さんに主人公の息子(成人してます)が怖いものはないのか?


と尋ねたときに「自分の妻が変な宗教にハマッた時だけは怖かった」


お前(息子のこと)は怒るかもしれねえが、


「俺はお前なんかよりもはるかに妻のことを愛してたからな」


「自分の愛した女がまるで別人のようになっていく」


「そんなことには俺は耐えられない」と思って本当に怖かった


というくだりが大好きです。


蛇足ですが、近頃流行っているTWITTERというのは


「頭」でわかる、か。「体」でわかる、か


どちらの流れに拍車をかける道具となるのか?


ちょっと見守っていきたいと思っております。


今日はこのへんで。