2015年は「一つの時代の終わり」という仮説 未来は戦争か平和か?

2015年、世間的なインパクトはなかったが、


2015年7月20日に哲学者の鶴見俊輔さんが死去された。


享年93。


言い残しておくこと

言い残しておくこと


そして鶴見氏がこの世から去った、


そのわずか2か月後の2015年9月19日に


安全保障関連法が参議院本会議で可決・成立した。


朝日新聞デジタル 2015年9月19日02時28分
 http://www.asahi.com/articles/ASH9M0GMCH9LUTFK02S.html より引用開始)


安全保障関連法が19日未明、参院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決され、成立した。


民主党など野党5党は18日、安倍内閣不信任決議案の提出などで採決に抵抗したが、


自民、公明両党は否決して押し切った。


自衛隊の海外での武力行使に道を開く法案の内容が憲法違反と指摘される中、


この日も全国で法案反対のデモが行われた。


(引用ここまで)


もちろん、これだけをもって、未来は戦争だとか、そんな短絡的なことを言う気はない。


私はリアリスト(現実主義者。つまり理想主義者ではないという意味。)である。


とはいえ、直接的な因果関係はないが、


「空気」ですべてが変わるこの「日本」という国においては、


鶴見俊輔氏が亡くなり、安全保障関連法案が可決した、この2015年という年は、


後世の「日本史」の教科書において、のちに、大きな分岐点だった、と


語り継がれることになる年になるのかもしれない。


その結果が、「戦争」であろうと「平和」であろうと、だ。


(まあ、本当は、2015年は「世界史」的にいえば、


 中国が主導しBRICS諸国が牽引する「AIIB」に、本来参加しないと思われていた、


 アメリカの同盟国であるはずの「イギリス」「オーストラリア」を含む、


 「フランス」「ドイツ」「イタリア」などの「EU」諸国も参加を


 決めたということの方が、はるかに大きな出来事ではあるけれども…)


それはさておき、この悲しい出来事(鶴見俊輔氏の死去)によって、私に影響を与えた、


「戦争を体験し皮膚感覚で知っている世代」の『BIG3』が


全員亡くなってしまったことになる。


「アンチからオルタナティブへ」を標榜する、私にとっての「BIG3」とは…


【1930年代に10代を送った人】※20代で太平洋戦争⇒敗戦を味わった人


1.享年93「鶴見俊輔」1922年(大正11年)6月25日〜2015年(平成27年)7月20日


  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E4%BF%8A%E8%BC%94


限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

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戦後日本の大衆文化史―1945‐1980年 (岩波現代文庫)

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思い出袋 (岩波新書)

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2.享年87「吉本隆明1924年大正13年)11月25日〜2012年(平成24年)3月16日


  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9C%AC%E9%9A%86%E6%98%8E


改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

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悪人正機 (新潮文庫)

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【1940年代に10代を送った人】※10代で太平洋戦争⇒敗戦を味わった人


3.享年78「小室直樹」1932年(昭和7年)9月9日〜2010年(平成22年)9月4日


  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AE%A4%E7%9B%B4%E6%A8%B9




もちろん、おわかりの方はおわかりだろうが、


「1.鶴見俊輔」は(個人的にはその点はどうでもいいのだが)「ベ平連」&「憲法9条を守る会」などで知られる人だし、


「2.吉本隆明」は「安保反対」を唱える「学生紛争」の主体「全共闘」の理論的主柱だった人だし、


その一方で、


「3.小室直樹」は米ソ冷戦時代に、日本中に左翼ウィルスが蔓延しかけた中、


ぶれることなく、誰よりも早く、旧ソ連の崩壊を予言した人物だし、


古い分け方で言えば、


「1.鶴見俊輔」&「2.吉本隆明」は、いわば左翼。


「3.小室直樹」はいわば右翼。


言うなれば、水と油。


この3人を並べるとはいかがなものか?とお叱りを受けるかもしれないが、


そんなことより、私は、(日本語の壁に守られた、狭い)「言論」の世界から、


「戦争を実際に皮膚感覚で体験したことのある」人の発言が「自然消滅」する状態に


なんらかの危機感(センサーのようなもの)が働いている、としか表現しようのない状態である。


なぜなら、「人間は痛みを伴わないと学習出来ない存在だ」という定理を


結局は人類は克服できないだろうと考えるからだ。


「頭でわかること」と「体でわかること」は全く違う。


(2010-01-23 「知る」「わかる」という意味の変容 〜「頭」でわかるか、「体」でわかるか〜
 http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20100123/1264184426 参照)


「戦争」の「痛さ」を知らない人間が、どんなに「戦争」は良くないと思っていても、


土壇場で、もし追い詰められたら、もう「戦争」をやるしかない!という結論になる。


そうなるように出来ているとしか、私は言いようがない。


土壇場とは何か?追い詰められたらとは何か?


それは「貧乏な生活」だったり、「大嫌いな中国が攻めてくる」だったり、


「恋人が出来ない」だったり、「もう子どもが産めない」だったり、


人それぞれなのだが、どれも「みなさん自由な方がいいでしょ!」という大義名分の名のもとに、


「国民みなさんのために推し進めてまいります!」といってここ20年ほど突っ走ってきた


この国の現状でしかない。


私は「嫌われる勇気」を持とうと思う。良薬は常に苦い。今からみなさんが耳を塞ぎたくなる本当のこと(真実)を書きます。


・「金」は無いよりあった方がいい!(お金があれば防ぐことが出来る不幸もある)


・アジア人同士は戦わない方がいい!(私は正直、中国も韓国もあまり好きではないし、言うべきことは言うべきだが喧嘩はダメ)


・人間はどんなに高尚ぶっても「動物」です。(先天的にどうしようもない人を除いては)子孫を残さなかった人の負けです。


・「女はクリスマスケーキ(25歳までに結婚出来ないと価値が大暴落する)」「35歳になると羊水が腐る(BY倖田來未)」


 ひどいと言われてる、上記の2つの発言。真に受けていれば「もう子どもが出来ない」なんて事態に陥らずに済んだはず。


みなさん、騙されてませんか?大丈夫ですか?


騙される人が減らない限り、戦争を避ける手段は、残念ながら存在しない。


なぜなら「戦争」は「世の中」に不満を抱えた人が一定数を超え、


その不満を抱えた人たちが、「何らかの恐怖」などによって扇動されたりしたときに


(いわゆる「ショック・ドクトリン」)発生する(防げなくなる)ものだからだ。


『傷つく人を減らすための 人を傷つける「真実」』ともいうべき「情報」が


今、この国に最も欠けているもの、なのではないか?


とはいえ、そんな私も、戦争の「痛み」を知らない「無力」な一個人に過ぎない。


しかし、先人たちが亡くなってしまった以上、無力だろうが、なんだろうが、


残された人間がやるしかない。その気概だけは失わずに生きていきたい。


鶴見俊輔氏のご冥福をいまさらですが、お祈りいたします。


本日はここまで。


最後にちょっとでも鶴見俊輔氏に興味を持たれた方のために


以下、著名人の鶴見俊輔氏への弔辞を引用しておきます。ご参考まで。


毎日新聞 2015年7月24日 大阪夕刊 より引用開始)
http://mainichi.jp/articles/20150724/ddf/041/040/032000c


■(ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎さん)



民主主義者そのもの 2004年、鶴見さんらと共に「九条の会」の呼びかけ人となった作家、大江健三郎さんの話


「広く深く、アメリカ文化に通じた人だった。集会の立ち話で、愉快に教えられた。「民主主義者」そのもの。」



■(反権力押し通す 作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんの話)



生きることば あなたへ (光文社文庫)

生きることば あなたへ (光文社文庫)


「最後にお会いしたのは2年ほど前で、病気だと聞いていた。大変立派な方で、同い年でもあり、とても悲しい。


 (大逆事件で処刑された唯一の女性で社会主義運動家の)管野スガを題材にした小説を執筆した時、


 どこの出版社も扱ってくれなかったが、鶴見さんが引き取ってくれた。それ以来のおつきあいで、大変尊敬していた。


 ひょうひょうとした感じで、ちっとも偉ぶらない。ちょっとお付き合いしただけでは


 あんなに偉い人だとは分からない方で、とても温かく優しかった。


 あまり表には出さないが、とにかく反権力を押し通した人。


 お元気でしたら(安全保障関連法案を強行採決するなどした政府に対し)黙っていないでしょうね。」



■(一つの時代終わった 宗教学者で元国際日本文化研究センター所長の山折哲雄さんの話)


 「批評をする時はまず刀の切っ先で自分の背中を刺し、腹から出たその切っ先で相手を刺す」


 と語っておられたのを覚えている。


 思想家として、まずは自分を真っ二つに批評してから相手を批評する精神に感銘を受けた。


 今の多くの人が忘れていることだ。お目に掛かった機会はそれほどないが、


 半ば畏れを含んだ敬愛の気持ちは深かった。一つの時代が終わったという気持ちだ。


毎日新聞より 引用ここまで)


朝日新聞より 引用開始)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11886343.html?_requesturl=articles/DA3S11886343.html


憲法という嘘に誠を見いだす 鶴見俊輔さん追悼 小熊英二 2015年7月28日16時30分


〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性


戦争が遺したもの

戦争が遺したもの


小熊英二(歴史社会学者)


 さる7月20日死去した鶴見俊輔氏には、日本の慣用句を寸評した「かるたの話」という文章がある。


 そこで彼は、「うそから出たまこと」という慣用句に寄せて、こう述べている。



 「(戦後に)新しく、平和憲法という嘘が公布された。これはアメリカに強制されて、


  日本人が自由意志でつくったように見せかけたもので、まぎれもなく嘘である。


  発布当時嘘だったと同じく、今も嘘である。しかし、この嘘から誠を出したいという運動を、私たちは支持する」



 鶴見は、自分の代表作は『共同研究 転向』だと述べていた。


 そこで扱われたのは、戦前に国家主義に転向した左翼知識人と、戦後に占領軍へ追放解除申請を書いた右翼や政治家たちだった。


 鶴見はこう述べている。「赤尾敏とか、笹川良一とか、みんな申請書を書いているんだよ。だいたいは、私は昔から民主主義者だ、


 追放解除してほしい、そういうものだよね」(『戦争が遺〈のこ〉したもの』)



 鶴見は「優等生」を嫌った。優等生は、先生が期待する答案を書くのがうまい。


 先生が変われば、まったく違う答案を書く。教師が正しいと教えた「枠組み」に従う。


 その「枠組み」には、共産主義国家主義など、あらゆる「主義」が該当する。


 「日の丸を掲げないのは非国民だ」「マルクス主義を支持しないのは反革命だ」といった枠組みを、鶴見は生涯嫌った。


 彼はその対極として、「作法」や「党派」から自由な、大衆文化や市民運動を好んだ。



 鶴見にとって、枠組みを疑う懐疑と、ベトナム反戦憲法九条擁護の運動は、矛盾していなかった。


 その理由を、南方戦線での従軍経験もある彼は、こう述べている。


 「私は、戦争中から殺人をさけたいということを第一の目標としてきた。その信念の根拠を自分の中で求めてゆくと、


  人間には状況の最終的な計算をする能力がないのだから、


  他の人間を存在としてなくしてしまうだけの十分の根拠をもちえないということだ。


  殺人に反対するという自分の根拠は、懐疑主義の中にある。


  ……まして戦争という方式で、国家の命令でつれだされて、


  自分の知らない人を殺すために活動することには強く反対したい」(「すわりこみまで」)



 鶴見は運動においても、新しい「主義」を次々と輸入し、次々と乗り換える作法を嫌った。


 彼が好んだのは、古なじみの慣用句や通俗的な文化に、意想外の意味を与えていく大衆の想像力だった。


 彼は西洋思想を掲げる学生運動家を好まなかったが、1960年代の学生たちがヤクザ映画を愛し、


 製作者の意図をこえた意味を与えていることには共感を示した。



 国という枠組みにこだわらない彼は、日本の外にも、そうした想像力を見いだした。


 その一つが、征服者が押しつけた聖母像を、メキシコ先住民たちが褐色の肌の女神につくりかえた「グアダルーペの聖母」である。



 そして日本の大衆も、アメリカが押しつけた憲法を、アメリカの意図をこえて受容した。


 追放解除を経た政治家が首相となり、アメリカとの安保条約を改定しようとしたとき、彼らはその憲法を掲げて抗議した。


 恐らく鶴見はそこに、「嘘から誠を出したいという運動」をみただろう。



 鶴見の肉体が滅んだ4日後の24日金曜、夜の国会前を埋めた万余の群衆は、


 「憲法守れ」「民主主義ってなんだ」「誰も殺すな」と叫んでいた。


 これらの使い古された慣用句に、大衆が新しい意味を与えている場面をみたら、鶴見は喜んだだろう。


 たとえ彼らが、「鶴見俊輔」などという名前を、一度も聞いたことがなかったとしても。



■手紙に感激、進むべき道決まる


 <映画評論家・佐藤忠男さんの話> 新潟で工員をしながら映画評論を書いていた頃、


 「思想の科学」に「任侠(にんきょう)について」という評論を投稿しました。


 すると鶴見さんから手紙をいただき、大変感激しました。


 鶴見さんは学者たちに「この人は分析的な文章を書く人です」と紹介して下さった。


 私を一人の研究者として見て下さったのだと感じ、その時私の進むべき道が決まりました。


 鶴見さんは自分と異なる思想の人を理解すべきだとおっしゃっていました。


 相手の人生や論理を理解したうえで反論すべきだ、と。


 それは私が文章を書くうえで、忘れられない教えになりました。


 ■20年前から「葬儀は不要」 黒川創さん語る


 鶴見俊輔さんの長男で早稲田大教授(日本近代史)の太郎さん(50)と、


 親交が深かった作家の黒川創(そう)さん(54)らが24日、京都市で会見し、故人が生前に抱いていた思いを披露した。



 鶴見さんは、今月に京都市であった安全保障関連法案反対デモの呼びかけ人に名を連ねたが、


 法案への具体的な発言はしていなかったという。ただ、反権力の姿勢を貫いてきた鶴見さんの活動ぶりを振り返り、


 黒川さんは「(権力の行為を)止める際、思想と行動をどう結びつければよいか、


 独創性のある抵抗のやり方を考えるべきだという思いだった」と述べた。



 鶴見さんは20年ほど前から葬儀の必要はないとメモに残していたという。


 黒川さんは「『戦前や戦中、宗教者がしてきたことを俺は忘れていないぞ』という態度を貫きたいのだと思う」と推察。



 お別れの会などの予定もなく、「弟子を持たなかった鶴見さんにとっては、開いて欲しくないだろう」と説明した。


 (村瀬信也)



■リベラル、鶴見俊輔氏のための言葉 上野千鶴子氏追悼文 2015年7月24日05時02分


http://digital.asahi.com/articles/ASH7R5WJ8H7RUZVL006.html


社会学者・上野千鶴子さん寄稿


鶴見俊輔さん死去 「思想の科学」「ベ平連」93歳



スカートの下の劇場 (河出文庫)

スカートの下の劇場 (河出文庫)


戦争が遺したもの

戦争が遺したもの


特集:鶴見俊輔さん死去


 鶴見さんが、とうとう逝かれた。いつかは、と覚悟していたが、喪失感ははかりしれない。


 地方にいて知的に早熟だった高校生の頃から「思想の科学」の読者だったわたしにとって、


 鶴見さんは遠くにあって自(おの)ずと光を発する導きの星だった。



 京大に合格して上洛(じょうらく)したとき、会いたいと切望していた鶴見さんを同志社大学の研究室に訪ねた。


 「鶴見俊輔」と名札のかかった研究室の扉の向こうに、ほんものの鶴見さんがいると思ったら、


 心臓が早鐘のように打ったことを覚えている。おそるおそるドアをノックした。二度、三度。返事はなかった。


 鶴見さんは不在だったのだ。面会するのにあらかじめアポをとってから行くという智恵(ちえ)さえない、18歳だった。



 あまりの失望感に脱力し、それから10年余り。「思想の科学」の京都読者会である「家の会」に


 20代後半になってから招かれるまで、鶴見さんに直接会うことがなかった。


 それほど鶴見さんは、わたしにとって巨大な存在だった。



 「思想の科学」はもはやなく、鶴見さんはもうこの世にいない。いまどきの高校生がかわいそうだ。


 鶴見さんは、このひとが同時代に生きていてくれてよかった、と心から思えるひとのひとりだった。



 鶴見俊輔。リベラルということばはこの人のためにある、と思える。


 どんな主義主張にも拠(よ)らず、とことん自分のアタマと自分のコトバで考えぬいた。


 何事かがおきるたびに、鶴見さんならこんなとき、どんなふうにふるまうだろう、と考えずにはいられない人だった。


 哲学からマンガまで、平易なことばで論じた。座談の名手だった。



 いつも機嫌よく、忍耐強く、どんな相手にも対等に接した。女・子どもの味方だった。


 慕い寄るひとたちは絶えなかったが、どんな学派も徒党も組まなかった。



 哲学者・思想家であるだけでなく、稀代(きたい)の編集者にしてオルガナイザーだった。


 「思想の科学」は媒体である以上に、運動だった。



 このひとの手によって育てられた人材は数知れない。独学の映画評論家佐藤忠男


 「みみずの学校」の高橋幸子、『女と刀』の中村きい子、作家・編集者の黒川創、批評家の加藤典洋……。


 わたしもそのひとりだった。そう言える幸運がうれしい。


 わたしは長いあいだ鶴見さんに勝手に私淑していたが、後になって「鶴見学校」の一端を占めることができたからだ。



 ベトナム戦争のときには、ベ平連こと「ベトナムに平和を!市民連合」と、


 JATEC(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)を組織した。


 ベ平連に「アラジンのランプから生まれた巨人」こと小田実さんをひきこんだのは鶴見さんである。



 加藤周一さんらと共に、「九条の会」の呼びかけ人にもなった。


 今夏の違憲安保法制のゆくえを、死の床でどんな思いで見ておられただろうか。



 1996年に「思想の科学」が休刊し、十数年後にその意義をふりかえるシンポジウムが都内で開催された。


 病身を圧(お)して奥さまと息子さんに両脇をかかえられながら、京都から鶴見さんが参加された。


 そのときのスピーチもきわだって鶴見さんらしいものだった。



 「思想の科学」の誇りは「50年間、ただのひとりも除名者を出さなかったことだ」と。


 社会正義のためのあらゆる運動がわずかな差異を言い立てて互いを排除していくことに、身を以(もっ)て警鐘を鳴らした。



 2004年に歴史社会学者の小熊英二さんの企画で、ご一緒に鶴見さんを3日間にわたってインタビューした記録


 『戦争が遺(のこ)したもの』(新曜社)を出したときのことは忘れられない。



 「何でも聞いてください」と鶴見さんはわたしたちのためにからだとこころを拓(ひら)き、


 どんな直球の質問にも答えをそらさなかった。思いあまって詰問調になったときには、空を仰いで絶句なさった。


 その誠実さに、わたしは打たれた。題名を思いついたのはわたしだが、


 話してみて鶴見さんにあの「戦争が遺したもの」の影の大きさを思い知った。



 最終日、鶴見さんの饗応(きょうおう)で会食したあと、


 わたしはこんな機会はもう二度とないだろうと、別離の予感にひとりで泣いた。



 鶴見さんはもういない。もう高齢者の年齢になったというのに心許(こころもと)ない思いのわたしに、


 いつまでもぼくを頼っていないで、自分の足で歩きなさい、とあの世から言われている気がする。


朝日新聞より引用ここまで)