「真実の期間計算」(by副島隆彦)と「10年いっちょ前理論」(by吉本隆明)


閑話休題


10年ひと昔とはよく言ったものだ。


30歳を目前に控え、急にジジくさくなるのもなんだが、


この年になったからこそわかるものもやはりある。


(もちろん、その分失われたものもあるのだろうが…)


それは、副島隆彦の言うところの「真実の期間計算」という概念である。


ものごとのホントウ(真)の価値を決定するには、


少なくとも10年以上の期間をもって判断されなくてはならない、という


考え方だが、最近この意味合いが昔よりはるかに実感として身にしみて感じる。


10年前に輝いていたとしても、その10年後までそれが続いていなければ、


真に価値があることだったとは結局言えなくなる。(歴史上は評価されなくなる)


もちろんほとんどの人が、たとえ瞬間風速的にでも、輝くことなんて出来やしないのだから、


一瞬でも輝くことが出来た人はそれだけでもスゴイことなのだが、


(だから一発屋は、一回当てただけでも本当はスゴイといえばスゴイのだが)、


それが将来的に、さらには歴史的に評価されるためには「継続」というのが


何よりのキーワードになってくるのだと思う。


そこで逆に思い出されるのが、吉本隆明氏のこの言葉だ。


「人間は誰でもどんなことでも10年続けていればプロになれる」


※後日修正&補足


正確には、「どんな仕事でも、10年間、毎日休まずに続けたら、
 

        必ずいっちょまえになれる」でした。


http://www.1101.com/darling_column/2008-12-01.html を参照。


※修正&補足ここまで


たとえ、どんな人でも、仮に瞬間的には輝けない人であっても、


10年同じことを続けてやっていられれば、それなりにはなるよ、


というメッセージであり、実は瞬間的に輝くことよりも


地味なことでも長く続けて積み重ねていくことの方が、結果論として


歴史的には評価される可能性を秘めているということではないだろうか?


「重たく鈍い刃物をずぶっと刺すような感覚」で「物事をじわじわと進めていく」と


いうようなことを、かつて副島隆彦氏が戦略的に語っていたような気がするが、


ちょうど今、そんな心境である。


とまあ、いつもどおり話が脱線し、表題からあまりにもかけ離れた内容になってしまったが、


最近、花火大会に行っていないというあなた、


もしくは、横から見た花火が「丸い」のか?「平ら」なのか?


そういえば知らない、言われてみれば気になるというあなた、


今となってはだいぶ昔の作品ですが、今見ても十分面白い作品なので、


打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」を是非ご覧になってください。


打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? [DVD]

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絶対に損した気分にはなりません。間違いなく20世紀の名作のひとつです。


今日はこのへんで。


(追記1)


「どんな仕事でも、10年間、毎日休まずに続けたら、必ずいっちょまえになれる」


という言葉から吉本隆明氏に興味を抱いた方は、


悪人正機 (Καρδια books)

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悪人正機」を読んでみてはいかがでしょうか?


正直、吉本隆明氏の著作は、本人が詩人であることも手伝って


難しい言葉で書かれているものが多く、個人的には読む気が失せてしまう


ものばかりなのですが、この本は違います。


糸井重里さんが「翻訳者」として、吉本隆明氏の考えていることを


僕らにもわかる言葉にしてうまく引き出してくれている良書です。


(追記2)


「真実の期間計算」という副島隆彦氏が提唱した理論に興味をもった方のために


「176」 「真実の期間計算」という理論を説明する 2001.7.25


より、一部転載します。 http://snsi-j.jp/boyaki/diary.cgi


(引用開始)


副島隆彦です。今日は、2001年7月25日です。


今日は、「真実の期間計算」と言う言葉について説明します。


この「真実の期間計算」は、私が勝手に一人で、この20年近く温めて、


ぶつぶつといつもつぶやいていた考えです。考え、というよりも、


思考のための基礎となる方法学(methodology メソドロジー)の一部、と呼んだ方がよいものです。



「真実の期間計算」という言葉は、おそらく、私以外の日本人は、使わない言葉、だと思います。


この言葉の意味を、もっと、はっきりさせると


「真実(あるいは、事実)を測定するための期間計算」となります。


もっと、分かり易くすると、


「ある事柄(事象、出来事)が、事実あるいは真実であるか、どうかは、その事柄を、


どの期間(時間の幅)で見て判断するかに、かかって来る」とする考えです。



私は、時々、雑誌の編集者のような人たちに、仕事でのインターヴューを含めて、つぎのように聞かれます。


「副島さんは、これからの中国と日本の関係を、どのように考えますか」とか


「今後の、日米関係はどうなると、お考えですか」とか、


アメリカ政治研究の専門家である副島さんに、アメリカがこれからどうなるか、を予測してもらいます」と、


質問を投げかけられます。



私は、そのとき、戸惑う、というよりも、又これか、という気持ちになります。


どうして、この人たちは、無前提に、無条件に、「今後の日米関係はどうなる」みたいな、


大雑把な質問を平気でするのだろう、という反応を私はします。


確かに、インターヴュアーとしてみれば、大きく風呂敷を広げて、


相手に何でも自由にしゃべらせた方がいいので、こういう質問事項を、10ぐらい準備しておいて、


それを、次々に投げかけた方が、便利でしょう。ですから、私が、逆の立場だったら、やっぱりこういう、


いい加減な、どんぶり勘定式の質問の仕方をするでしょう。



ここが、日本人のいけないところだ、と、私が書いたら、また、いつもの日本知識人批判になってしまう。


今日は、そういうことを書いていられない。



「真実の期間計算」は、「価値判断(value judgement )における、期間計算」と、書き換えてもよい。


本当は、その方がよい。「真実(truth )(について)の期間計算」では、あまりに大仰かもしれない。


ただ、私は、ひとりでずっと、20年間もひそかに、この思考のためのひとつの判定基準、


を採用して来ているので、このまま使う。



このことは、それほど、難しいことを言っているのではない。


たとえば、「これから中国はどうなるか」という極めて一般的な質問がある。


それに対して、私は、「あなたは、その質問を、今から5年先の予測を、私に聞いているのか。


それとも、10年後か、30年後のことか。100年先のことか。


それとも、1年後の中国が、軍事大国化を更に推し進めてアメリカとぶつかることのなるとか、


あるいは、中国の国営企業群の株式会社化を何とかやり抜いて、形だけでも開放経済体制を守るのか。


そういうことを質問してるのですか。だから、この先のどこの未来時点での話をしているのですか」と


聞き返すことになる。



これが、「真実の期間計算」だ。


他にも、たとえば、これからの日米関係(日米同盟)がどうなるのか、という質問に対しても、


全く、同じ回答をしなければならない。「今から3年後の日米の政治・外交関係ですか。


それとも10年後の話ですか。それとも、今年の秋に、アメリカの景気が、いよいよ本格的に悪化して、


世界的な大不況に突入するのか、という予測か。


それとも、今の日本のデフレ・スパイラル経済だけが深刻化して、このまま日本だけが激しく追い詰められて、


企業がまずます倒産し、失業者があふれるようになる、ということを、あなたは、聞きたいのか」と、


矢継ぎ早に、私のほうから聞き返してしまう。



私は、もったいぶって、わざと鷹揚(おうよう)に構えて、質問者への回答をはぐらかしたりする人間ではない。


本当は、確信をもった答えが無くて、他の評論家の本や新聞記事の中身をそのままなぞるだけ、


の無難な受け売りばっかりやっている偽物言論人でもない。私の場合は、つねに、明晰に、明確に、だ。


知り得る限りで明確に未来予測もする。だから、私の場合は、勢い、そういうやり取りになる。



これが、事実 facts の将来予測についての、期間計算という考え方である。


期間計算は、そのまま、過去の歴史的な事件や事柄にたいする、評価の際の基準となる。


「この問題は、歴史(家)の審判を仰がなければならない」という言葉に、


この「真実(事実)の期間計算」という考え方が含まれている。



たとえば、「1937年(昭和12年)の12月13日の、日本軍による、中国国民党政府の首都であった


南京占領の際の南京大虐殺は、有ったのか、無かったのか、それともその際の掃討戦の際に摘発した


死者の数という、程度の問題か」という、例の歴史評価の大問題がある。


これも「真実の期間計算」という考え方(方法学、メソドロジー)を組み込まない、と


冷酷な判定はできないだろう。



歴史的な事件・出来事を、判定(判断)する、こちら側にいる、私たち人間のほうが、


考え方をぐらつかせるから、判断の基準にならない、という問題が、前提 preposition として存在する。


人間というのは当てにならない生き物だ。どんな優れた人物でも、10年単位で測定していると、


随分と考えが変わってしまっている。それを、30年、40年の、ひとりの知識人の言論活動の全体像、


として外側から観察的に見ると、その振幅(ぶれ)の大きさを、勘案しなければ済まない。



日本国内の基準でしかない、右だ、左だ、という基準は、本当は、無意味だ。


日本的な基準での右・左というのは、世界全体の政治の枠組みでの右・左とは無関係だからだ。


欧米の知識層からみた、日本の右・左、というのは、ソビエト、中国の影響を受けた者たちが左、


アメリカの言うことになるべく従おう、というのが右、という事だ。


たとえば、今のイランの大統領派の近代化支持勢力が、左で、国内のイスラム教の宗教勢力が右、


ということと、似ている。


ところが、欧米型の資本主義を支持する者が、本来の右(保守)であり、


根本的なイスラム教の立場は、急進的な反米だから、過激な左の立場だ、ということで、


右・左の分類基準は、簡単に、逆転する。



それでも一応日本国内で引いてある、政治的な、右・左の区別自体は、私も尊重するし、


それしか他に、一番大きな判断基準はないだろうから、実際の現象面では、自分自身を含めて、


この日本国内での右(保守派)か、左(リベラル派か)の色分けに従うしかない。


人を勝手に決め付けるな、と説く人間が実際には決めつけをやるしかないのだから、どうにもならない。



私は、もうすぐ、マルクス主義社会主義思想)批判を含んだ、


日本の知識人・学者の歴史を批判する本を書くが、その中に、自分が20歳の頃に打ち立てて、


ずっとブツブツと独りごちて来た、自分を支えた重要な考えがあり、それを書くつもりだ。


これも「真実の期間計算」と似ている。



それは、歴史的な事件をあれこれ解釈し、判断するときに、


この場合、歴史とは、河の流れの濁流のようなものである。


そして、自分は、その歴史の大河の外側に居て、その河の濁流を安心して眺められる、


土手あるいは、堤防の上に居て、そこから、歴史的諸事件を、まるで、人ごとのように、解釈し、


価値判断をくだす、という態度は、をやめるべきだ、という考えである。



ここで、価値(values)とは、一番簡単に言えば、「すばらしい」ということ、だ。


この価値、というものは、「正しい」ということ、とも違う。がここでは、価値については、論じない。



マルクス主義(左翼思想)について、大きく4点ぐらいに分けて、扱うつもりだが、


まず、この「歴史という濁流の外側にいる自分」を認めるな、という指摘が重要である。


自分こそは、河の流れの中にあって、流されながら翻弄されている存在にすぎないのでありから、


物理学(自然学問)的な、意味での、観測者の安定した立場、など無い、ということだ。



無限遠点に同化出来て、ネグリジブル(無視してもいいほど)な定点と言うものを、


文科系の学問は、どうしても獲得できない、ということだ。



このことが、政治的および事件の歴史的判定、事柄判定において、大事だと私は、考えている。


つまり、マルクス主義者は、歴史の流の中に呑み込まれるようにして、もがいている、自分、


という観測態度をとらなかった。


だから、理想社会の建設(至福の千年王国論)という宗教運動に、自らがなっていった。


自分はいつも、土手の上から、下界の出来事を観察している無前提に正しい存在(客観的観測者)


という虚構を前提に置いて、世界を解釈しようとする。


ところが、そのような虚構は、勝手に自分が信じ込んだ虚構だから、


現実の自分たちは、哀れに追い詰められてゆく、実社会の敗残者の群れなのだ。


実情としての自分は、ドブの中をはまってもがき苦しんでいるだけのちっぽけな生活者であるに過ぎない。



そして、当然、彼らには、「真実の期間計算」という考えは無い。


この期間で考えれば、それは、うまくいっており、正義(正しい)行動、ということになる。


ところが、それを、100年の期間に置き換えると、とたんに、失敗した計画に基づく失敗の実例、であり、


すばらしい行動であった、どころか、倫理 erhics 的 にも悪(悪いこと)でもある、ということになる。


これらは、期間計算の問題だ。



1930年代からの日本国の、大東亜共栄圏構想(八紘一宇)の行動が、


東アジア圏への被害妄想的な、自暴自棄的な行動であったか、


あるいは、早々と「民主化」(デモクラタイゼイション)を達成したアジアの強国が自然に選んだ道であり、


悪ではなくて、 正義 justice にもかなっていた、と判断することもできる。


それは、100年間という歴史時間を前提(条件)にすれば十分に成り立つことだ。


日本人で、「日本の戦争中の国家犯罪」に、激しく、反発し、反論しようとする人たちは、


ここの期間計算で、自分たちの立場を守ろうとしている。これは十分に根拠のあることだ。


だから、問題は、「真実の期間計算」ということになる。


私は、今、何も新奇なことを言おうとしているのではない。



日本的な左(リベラル派)に対して、生来の保守派(保守的態度の生き方)は、


「自分は、この世の中に生かされている存在だ」という謙虚さから始めようとする。


「自分は、世の中(社会)に生かされている」という謙虚さが、保守派を強くするし、


目の前の現実にしっかり対応しようとする現実主義(リアリズム)の人生態度を選ばせる。


だから、1991年の12月のソビエト・ロシアの崩壊によって、


決定的に、ひとまず保守派が勝って、左翼勢力が世界的に敗北し退潮した。



このような歴史的な判定の問題、即ち、過去の出来事をめぐる判断の問題は、


これ以上は、ありふれた議論だからもうやらない。


将来あるいは、未来、近未来についての、「真実の予測についての期間計算」という方法学についても


表面だけは説明した。これは、小室直樹先生の初期の重要な本である『超常識の方法』で力説した


まさしく、学問(サイエンス)の基礎・土台となるメソドロジーの問題である。



近代学問(サイエンス)においては、条件づけられないものは、存在しないのと、同じだ、


という大命題である。ある事柄は、それを、どこからどこまでの、どの領域で、どの時間の幅の中で


観察、証明されることである、とする、仮説構成理論(ハイポセシス)ということである。


地球が丸い(球体)であるか否かさえ、厳密には、いまだに、球体論は仮説である、という。


なぜなら、私の目の前で、地上は限りなく平板であるからだ。


人間 man が、 高等猿類 ape エイプ から進化したものであるか否かも、仮説のままなのだという。



自然学問の場合は、ある証明は、他の誰かが、まったく異なる場所で、同じ条件で、


追試験・追実験 demonstration デモンストレイション して、何度やっても同じ結論になるようなもの、


でなければならない。そうでなければ、ある事柄の判定も法則や原理の発見もありえない。



この近代学問の実行の際の、土台・基礎が、証明 proof である。


日本では、文科系の学者・知識人というのは、この「厳格に条件づけられた一定の範囲の中での証明」


ということがわかっていない、という、ことが、今に至って問題なのだ。


もうこれ以上、分かり易く書かない。私自身が切実に抱え込んできた問題点を書き留める、


という作業の一環に今は、過ぎないからだ。



この「真実の期間計算」は、もとより、会計学の期間計算、という重要な制度枠組みの考えを


私が、採用して、それを、政治(学)に当てはめようととして、使っているものだ。


期間計算は、一番簡単に言えば、「○○年の1月1日から12月1日までの一年間の期間で、


損益を計算し、12月31日時点での、資産と負債と、資本金(内部留保)を確定する」という


会計学あるいは、企業会計原則の考え方だ。


(中略)


この、私の提唱する「政治諸問題における、判断の際の、真実の期間計算」は、


実は、アメリカ経済学の最近の先端の研究でも使われている。


それは、一般に、「多時点モデル」(inter-temmporal model インターテンポラル・モ(ウ)デル)


と呼ばれるものだ。



1980年代からの、ハーバード大学系(即ち、グローバリスト系)の若手の学者たちの、


研究はほとんど、この「多時点モデル」だ。



始まりは、シカゴ学派の裏切り者と呼ぶべきで、ハーバード大学に移ったロバート・バロー 


Robert Barro  教授の「リカードウの中立命題(仮説)」だ。


この「リカードウ仮説」とは、簡単にいえば、国債(赤字財政)と、増税は、


一国の国民経済にとっては、長い目でみれば、結局、同じことだ、と、する理論だ。



国民は、増税(例えば、福祉のための消費税値上げ15%の導入とか)を激しく嫌うので、


政府は、どうしても支払わなければならない国家財政を賄うために赤字国債を発行する。


その額は、ついに巨額にふくらんで、それで、かえせなくなる。


それで、大きなインフレが襲い掛かってきて、結局、国民の貯蓄が、吹き飛ばされて、


それで、税金を払ったことと等しくなる。


30年、40年の期間の、長い目でみれば、だから、増税と公債(赤字国債)は同じことだ、


とする考えである。


(中略)


このバローたちの「多時点モデル」という、言ってみれば、


私の「期間計算」という考えに非常に似ている方法学(思考枠組み)を使って、


アメリカの最先端の大秀才の経済学者たちは、議論しあっている。


いつから、いつまでの、何という国のマクロ経済(一国経済)を分析するか、で、分析の道具にこれを使っている。


(中略)


こういう訳で、私の「真実の期間計算」理論の話は、終わりだ。


私は,奇を衒(てら)った新奇な議論をここで展開しているのではない。


そろそろ、堂に入ってきた、と自分での思うくらいに、自分の理論は一環してきたと、


強く感じるようになっている。私が、負けたら、日本が負ける。それぐらいの気力の充実ぶりである。


(引用ここまで)