「アンチ」から「オルタナティブ」へ−ライブドア堀江社長はどっち?

(今回の連続 飛ばし読み可)


モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画を観た。
村上龍」といえば「キューバ
キューバ」といえば「革命」「ゲリラ」
その英雄こそが、映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」の主人公「チェ・ゲバラ」である。
また、「佐々木敏」の小説の処女作「ゲノムの方舟」の冒頭シーンは、
病床に伏しているキューバ首相「カストロ」の「アメリカの一番大切なものをうばってやれ。」という一言から始まる。
一方で「副島隆彦」は「英雄」なんかいないと声高に主張する。
以上、脈絡はないが、そんなことを思いながら、この映画を観たのだった。


そう、私は昔、革命児になりたかったのだ。
あの頃の私は、ただやみくもに世の中を変えたいと思っていた。
今思えば何もわかっていなかったのに、だ。


今の私は、昔、革命児になりたかった私とは違うが、その名残はまだあって、
それもまた今の自分を形成している大事なパーツの一つである。
その証拠に、私がリスペクトしている人達には、「革命的」な要素を含んでいるという共通点があると思う。
村上龍」しかり、「北野武」しかり、「松本人志」しかり、「糸井重里」しかり。


独り言をつぶやけば、革命児たらんとしていた私が「アンチ」の精神を持っていたとするならば、
今の私には、それが「オルタナティブ」の精神という風に形を変えて生き続けているのである。


思うに「ライブドア」の「堀江貴文社長(ほりえもん)」がやろうとしていることは、
ただの「アンチ」なのか、それとも「オルタナティブ」足りうる行為なのか?
失礼ながら、過去の自分と照らし合わせつつ、動向を見守っている。
長い前置きはこれぐらいで、そろそろ本題へ。


(飛ばし読み ここまで)


「Boys Be Anbitious! −少年よ大志を抱け!(ウィリアム・S・クラーク博士)」
という言葉にはインスパイアーされるものがあるが、
一方で人生には「向上心は時に幸せを妨げる」という側面があるのもまた事実である。


あんまり脈絡の無いことを書いていても誰も読んでくれなくなるなあ。
いや、自分の経験則からしても、映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」の主人公「チェ・ゲバラ」にしても
冒頭のことがあてはまると思うのである。
結局はバランスが大事だったり、選択をせざるをえなかったりするのだが、
この映画を観ながら、多感な20代の前半に、ゲバラが何を見て何を感じ取っていたのかと思いをめぐらせ、
観た後には翻って自分はどうだったのか、そしてこの先どうしていくのか、と思いをめぐらせた。
私にとっては非常に刺激的で充実した映画鑑賞となったのである。
パワーのある映画を観たり、パワーのある小説を読んだあとには、
そのパワーが自分の生活意識にまではね返ってきて「俺もいっちょやったるかー」という気にさせられたりするものだ。
その作品に触れたことで自分の生活や人生にドライブがかかる、といったかんじである。


話題はそれるが、「村上龍」と「村上春樹」の違いはそこにあると思う。


村上龍」の小説(全部ではないが)には、なんとなく「今のままでいいのか?」という
自分の生活意識にまではねかえってくる一種の変革的なパワーを感じるのである。
一方「村上春樹」の小説を読むと、より一層自分の自意識の混沌としたうねりの中に飲み込まれて行き、
結果、より自分の外の世界と自分とを隔離させていく作用があるような気がするのだ。
まあ、小説を読むのが好きな人は、そんな「混沌とする自意識の戯れ」を
例え病的であっても楽しみたがる人が多いと思うので(もちろん私にもその気はもちろんある)、
村上春樹」が好きだという気持ちはわかるけど、やっぱり私は「村上龍」の方が好きなのである。