「アンチ」から「オルタナティブ」へ−ライブドア堀江社長はどっち?


話を本題に戻そう。
「アンチ」の精神とは何か?
アンチ巨人」といえば、「巨人」が嫌いで「巨人」以外のチームを応援することだ。
これを掘り下げれば、「アンチ」の精神とは、世の中で「強い」とか「正しい」とかいわれ、
認められているモノやコトに対する「反逆」の精神であり、「反骨精神」である。
また私が意味するところの「アンチ」の精神とは、
団塊の世代が「日米安保」に反対して学生運動をしていた時の精神でもある。


私と同世代の若者たちには、「一歩引いたスタンス」「冷めた態度」の方がかっこいい
という風潮があるように思えるのだが、少なくともかつての私は、
学生運動そのものの是非はともかくとして、その熱気や熱さのようなものは、すばらしいよなー、
俺らに欠けているものだよなー、となんとなく憧れのような気持ちを抱いていたのだ。


しかし、同時に「アンチ」という精神が「団塊の世代」の限界であり、
我々の世代が熱くなるならば「オルタナティブ」な精神でやらなくちゃいかんよなーとも思っているのである。


なぜならば「アンチ」の精神というのは実は強者に甘えているだけの「だだっ子」の精神に過ぎないと思うからである。
その強者の打倒や変革を目指す精神でありながら、その先のビジョンを持たず、
ただ単に強きをくじくという行為そのものが目的化しているので、その強者が弱くなると
その行為の存続が危ぶまれるために逆に困ってしまったりするのだ。


そもそも学生運動以後の若者達が、なんとなく、
「一歩引いたスタンス」「冷めた態度」の方がかっこいいという風潮を持っているのは、
日米安保」反対という「アンチ」の精神の失敗からくる
「しらけ」ムードが発端で、今日までそれを引きずっているからだと思う。


また、そもそも「アンチ」の精神には、その「アンチ」の対象となっているモノやコト、
例えば、「巨人」なり、「日米安保」なりが、一方で大多数の人が「良し」として「認めている」のだ
という現実を考慮できていないという致命的な欠陥があると今となっては思うのである。


そうはいっても世の中には「これはおかしい」と思うのに、
「それはそういうものだよ」とされているようなことはたくさんある。
そんなふうにかんじたものに対しては、しらけるのでもなく、一歩引いて冷めた態度をとるよりも、
熱くなって自分が変えるぐらいの気持ちでいたほうがいいに決まっている。
でも大事なのは「どう変えたいか」「どう変えたらいいのか」という
それに変わる選択肢まで考えつつ行動することである。
それが「オルタナティブ」な精神だと私は思う。


また、全部を否定するのではなく、現状のいいところはいいところとして認めていき、
変えたほうがいいところだけ変えていこうとするのが「オルタナティブ」な精神である。
現在それが流通していたり、人気があったり、多くの人になんだかんだいって認められているのには
それなりの「良さ」があり、「理由」があるからである。その現実を決して無視してはいけない。
「巨人」には「巨人」が多くの人に支持されているだけの「良さ」があり、「理由」がある。
日米安保」もそうだ。でもその現実を認めながらも、
おかしいと思う部分はやはり自分で変えていくぐらいの「熱さ」は持っていていいと思う。
21世紀は、僕ら一人一人の手で作り上げていく、我々の世紀なのだから。
そのカギとなるのが「オルタナティブ」の精神だと思う。


さらに我々の世代は、基本的には「世の中」や「日本」を変えようと思うのではなく、
「自分の身の回り」をちょっとずつ「オルタナティブ」な精神で変えていこうと思えばいいのだと思う。
それを積み重ねていって、つきつめていった結果「世の中」や「日本」にたどりついた場合にのみ、
「世の中」や「日本」を変えていけばいいのである。


いたずらに「世の中」や「日本」を最初から変えようとする発想は、「アンチ」の精神に基づくものだと思う。
もちろん自分の手で世の中を変える、日本を変えるというのは、最高の力試しであり、ロマンもきっとある。
でもそれが「アンチ」の発想の域を出ない限り、長続きしないし、最終的にその試みに未来はないだろう、
というのが今の私の考えである。


最近「ライブドア」の「堀江貴文社長(ほりえもん)」が「ニッポン放送」の株を大量に取得して
「フジテレビ」を自分の影響下に置こうとして各所に波紋を呼んでいる。
堀江さんは間違いなく熱い人であり、その点では、私はおおいに彼をリスペクトしている。
だが、彼がやろうとしていることは、ただの「アンチ」なのか、それとも「オルタナティブ」足りうる行為なのか?
今後の動向は、堀江さんを熱くさせているのが
オルタナティブ」な精神に基づいているのかどうかによって決まると私は思うのである。