仮説をたてることの重要性

(今回の連続 飛ばし読み可)


アメリカ」に関することを書こうとして、ググってネットサーフィン(古!)をしていたら、
個人的にちょっと共感できて、トリビアの泉ではないが、へーっ、なるほどねって
思える文章にめぐり合ったので、それに関して書くことにする。


ネタ元は、バックサイドかめいさんの政治経済メディア掲示板の[212]仮説の重要性である。
http://www.backsidekamei.com/cgi-local/cbbs.cgi?id=seikei&mode=one&namber=212&type=0&space=0


思えば、私がリスペクトしている「村上龍」は、世の中で起こっている現象に対して、
情報を集め、仮説を立て、その仮説を小説という虚構(フィクション)の中で展開させることにより、
単純な知識や情報の集積では伝えられない「何か」
時には「(覆い隠されていた)真実(の断片)」を
表現していると感じられるから私にとっては面白いと感じるのだと思う。


また、「北野武ビートたけし)」や「松本人志」は、おそらく天賦の才もさることながら
「お笑い」というジャンルに取り組んでいるがゆえにはぐくまれたであろう、その直感力によって
「これって実はこういうことなんじゃないか」と一般の人が気付いていないかったけど
聞いてみるとなるほどなーと思うことをさらりと言ったりする。
これも広い意味で言えば仮説を立てていることなんだと思う。これがまた面白くてスゴイ。


糸井重里」に関して言えば、「おいしい生活」に代表されるキャッチコピーは、
その時代の、目には見えていないけれども存在しているであろう
空気や生活感覚を一言で表現し、共感を得るのが上手な人だ。
このキャッチコピーを作るということも広い意味では仮説を立てているといえると思う。
みんなが今求めているのはきっと「おいしい生活」なんじゃないか?
という仮説がキャッチコピーを生んでいる。


現在糸井重里さんが取り組んでいる「ほぼ日」というサイトも実は、仮説の集積という側面があると思う。
「世の中にあんまり流通してないけど、こんな考え方やものの見方もあってすごく面白いんだよ、どお?」
っていうのが「ほぼ日」を通して、糸井さんが各ジャンルの「ひとかどの人」達と連動してやろうとしていることであり、
一方で、インターネットという双方向性を利用することにより、まだ形になっていないが、
個人個人がホントにこれあったらいいのになあと思っているモノを商品化してみたりしているのも、
ひとつの仮説に基づいたリアルな市場における実験という感じがするのです。


前者に関して具体例をあげれば、現在残念ながら諸事情により更新されていないのですが、
ジャーナリストの「鳥越俊太郎」さんの
「3分間で最新のニュースを知る あのくさ、こればい」なんかがいい例だと思うのですが。


ああ、こんなに前書きが上手くまとまらないうえに長くなってしまうとは…
そろそろ本題に入ります。


(飛ばし読み ここまで)


でもって今回のテーマは「仮説をたてることの重要性」についてである。


でまあ、僕は「仮説を自分で立てる」ことも好きだし、広い意味で「仮説が含まれている表現」に触れることも好きなのである。
それはなぜか?ひとつには、その方が「面白い」からであり、もうひとつには、その方がより「可能性」を感じるからである。
ここでの「可能性」とは「真実をえぐり出す」可能性であり、
その一方で新たに「社会的にオルタナティブな選択肢を生み出す」可能性のことである。
あくまで、「可能性」に過ぎないので、仮説が「真実」でない場合もあるということに留意しつつ話を進める。


上で紹介した、かめいさんの[仮説の重要性]においては、要約すれば、
「日本からなぜ、世界に羽ばたく人文学者が出てこないのか?」という問題提起に対して、
「日本の戦後教育で、あまりにも暗記教育が厳しく行われ」た結果、
「大抵の日本の物書き、もしくは評論家、批評家、(さらには文科系の学者)などは、
「既存の知識」からして、どうなのか?しか書けな」くなっていて、
「こうじゃないか?」という大胆な仮説をたてている人がほとんどいなくなってしまっているからではないのか?
という「仮説」を立てています。
さらには、インターネットでみられる議論に関しても、新しい仮説が立てられた場合の反応としては、
たいていは、「既存の知識」を引っ張ってきて揚げ足をとって馬鹿にして自己満足をするというようなものがほとんどである、と。
それでいいのか?ってことですよね。これは良くないと思いますよ、僕も。


技術屋であるかめいさんは、自分の技術屋としての仕事の取り組み方と「副島隆彦」のような人が
「仮説を立てること」を照らし合わせることで[仮説の重要性]発見をしたようです。
ちなみに「副島隆彦」という人は、キチガイあつかいされることが多いですが、
自らを「暴き系」と称しており、他の誰よりも「真実」の探求に熱心な人だと思います。
さまざまなものごとに自分なりの仮説を立てまくっており、それらが本当かどうかはまた別の問題として、
それぞれの仮説は非常に独特でめちゃくちゃ面白いと思います。


(引用開始)
私が何かを発明・開発する場合には、必ず、「仮説」を立てます。
恐らくこうじゃないか、こうすればできるはずだ、といった具合です。
すると、できないのです(できる場合もありますが)、
で、できなかった場合、じゃあ、どこかが間違っていたんだな、と考え、
新しい仮説を元に又やり直すんです。


この思考プロセスは、恐らく、副島隆彦氏など、
私が「仮説を立てて文章を書いている人」と考えている人のやっていることは同じなんだ!と思うにいたりました。(中略)


問題は、こういった仮説が正しいかどうかではないのだ、と認識するに至りました。


(引用終わり)


そうやっぱり日本の学問の社会的な貢献度を考えると「理系>>>>文系」って気が前々からすごいしてたわけですよ。
理科系の学問のほうが、最先端な現場になればなるほど、なにか新しいものが生み出されるとワクワクしてるようなかんじで、
一方文系の方はというと、権威のあるところにいけばいくほど、冒険をしないというかなんというか停滞しているというか・・・
その鍵となるのがこの「仮説を立てることの重要性」なのではないか、と。
つまり日本の文系のエライとされている学者たちは、
大胆な仮説を立てて新しいものを生み出すという作業をさぼっているのではないのか、と。


いや、ホントにさー、日本の文系の大学教授だと、正統派であればあるほど(東大系か?)
つまらない研究をしてるような気がするんだよね。
なんというか、「客観的」であることを重要視しすぎるがゆえに、
何も現実の社会にフィードバックできるようなものを生み出さないというか。
「仮説を立てる」ということは「主観」の表明みたいなもんだから、
「客観的・普遍的」でなければならない「学問」の世界とは相容れないものだ、
みたいな逃げをうって「象牙の塔」にこもるというか。
でもそもそも「学問」っていうのは、「真実」の探求なんじゃないのか?と。
あなたがたのアプローチ法で本当に「真実」に近づけるのか?と
いまさらながら小一時間問い詰めてやりたいと学生時代から思っていたのでした。
ただ単に、いい先生にめぐり合わなかっただけのような気もするんだけどね、今となっては。


まあ、「仮説を立てる」っていうのは「主観」の表明だってこと、
つまりそのひとのオリジナリティが発揮されるからこそ面白いんだと思うわけで、
なんか日本の社会にしても、教育にしても、そういうのを排除するような
カニズムが働いているような気がするってことですな。
それが良くないと私は思っていると。


さらに言えば、「仮説」は、「真実」かどうか、というのとは別に「共感」を得られるか?
という判定基準があると個人的には思うのですが、それについてもおいおい書こう。


しかし問題はこの文章がいたづらに長いだけでたいして面白くないということだなぁ。
こういう内容のことを面白く読ませるような表現ができるようになりたいもんだ。
修練あるのみ、か。ではまた次回。