エビちゃん世代(1979年生まれ)


東京ガールコレクションにかこつけて、
エビちゃん世代」というタイトルで、
蛯原友里」さんについて書こうとしたけど
長くなってしまったので次回へ回します。


1980年生まれの人たちが「松坂世代」と言われて
もてはやされてるのに、なんで1979年生まれは、
ずば抜けた存在がいないんだ!と思っていたら
2006年に「蛯原友里」さんこと「エビちゃん」が大ブーム。


モデルさんだっていうから年下なんだろうと思っていたら、
なんと自分と同い年でビックリ!したのです。


エビちゃん」が自分と同い年ということがわかって、
ちょっと嬉しくなった私は、男でありながら
エビちゃん世代」と自分を称するようになったのです。


今日は、「エビちゃん」に関する糸井重里のエッセイを
ほぼ日から引用して終わります。


時代の空気を読み続けた糸井さんに
「うわぁ負けた」と言わしめるインパクトが
エビちゃん」にはあったみたいです。


続きは次回。


(以下、ほぼ日の「ダーリンコラム」から引用)


http://www.1101.com/darling_column/2006-02-20.html


エビちゃんの時代。>


いろんなことが変わってきている。
そりゃぁもう、いろーんなことが変わってきている。


そのすべてがインターネットのせいだとは言わないが、
どうも、インターネットが関係しているような
気がしてならない。


かつては、富にしても情報にしても、
どこかに「蔵」があって、
その「蔵」のカギを持っている人と、
持っていない人の間には、おおきな違いがあったものだ。


昔の空想科学映画に登場するコンピューターってやつは、
とにかく建物に近いくらいの大きさで、
それを超がつくほどのエリートとか、
むやみに金や権力を持っている悪人とかが利用している、
というような設定だった。


ところが、いまは、
そのへんの空想レベルのコンピューターなら、
みんながふつうに持っていて、
しかも、それをみんなネットでつないでしまって、
情報の都合をつけあっている。


「蔵」が「網」のかたちに変わってしまって、
カギなんかなくても、いつでも情報を取り出せる。
カギの役目もちょっと変わって、
個人情報を入れている「財布」のほうに、
カギが必要になっているというわけだ。


「蔵」から「網」の変化が、
どれくらい多くのものを変えてしまったか、
数えろといわれても、きりがないほどになっている。


たとえば、極端な話、ぼくの本棚は、
(もちろんお金というカギが必要になるんだけれど)
Amazon』のなかにある、とも言える。
さらにキミの冷蔵庫は、
部屋から外にでて数分のところに
『コンビニ』という名前で置いてある、と言える。
ひとりひとりの人間が、
自分の必要なものは、外の網のなかに持つようになる。


自分のところに自分のためだけの何かを持つのは、
「趣味」や「遊び」や「アート」に関わるような、
「持ちたいから持つもの」だけになっていく。
それも、よそにもあるようなものを
わざわざ持つのは意味がなくなっていくだろう。


そういう時代に、すっかりなってきている。
何がどう変化して、何がどう変わってないのか、
これが変わりそうで、これは変わらなそうだ、
というふうに、
何から何まであらゆるものごとの、
変化を見ているだけで、
いまのような時代はおもしろくてたまらない。


昔は高かったものが、安くなる。
昔は安かったもの、タダだったものが、
限りなく高くなる。
かつて低かった価値が、高くなったり、
ダサかったものがかっこよくなったり、
かっこよかったものが、ダサくなったり、
捨てていたものが奪い合いになったり、
大事にされて自慢されていたものが、ゴミになる。
そんな事例は、みんないくらでも見ているだろう。


以上、今回ここまで書いてきたことは、
ほとんど、常識的というか、
学校の先生の総まとめみたいなことである。
しかし、この時代の変化についての、
こんな総まとめみたいなことを、
なぜ、ぼくが書きたくなったかが大事なのだ。


ウェブ進化論』を読んだから?
いや、とても勉強になったけれど、ちがう。
オリンピックの「ほぼ日」での特集が
あまりにも不思議な大人気になっているから?
それも、うれしいけれど、ちがうんだよね。


エビちゃん」です、原因は。


かつては、
よく例に出されるけれど、
消防署のある通りの名前を
「ファイアーストリート」と名付けたり、
バンドのメンバーのニックネームを
ジュリーだとかエリーだとか呼び合ったり、
高速道路をハイウエイと言ったり、
もっと昔の歌なんかだと、口紅がルージュだったりね。
そういうカッコつけ方の時代が、
長く続いていたはずなのだ。


みんなの憧れるモデルの呼ばれ方が、
エビちゃん」です!
見事です、この時代にはこれなんだと思いました。
去年の夏くらいに電車の中吊りで、
エビちゃん」というモデルの存在を知ったのだけれど、
自分がこのネーミングを付けられたろうかと考えて、
「ああ、明治は遠くなりにけり」と思ったのだった。


エビちゃん」というのは、
プロが「蔵」からいいのを見繕って出してきた
というような「よさげ」な名前じゃないのだ。
女の子どうしの、同級生とかクラブの友だちとかが、
「えびはらだから、エビちゃん」というくらいの
軽い感じで付けた名前なのだ。
それでいいのだ。
それこそがいいのだ。
「エビだからシュリンプですよね、
 シュリンプってことで、シュリーでどうですか」
あるいは、
エビちゃんは、まずいっすよ。
 だったら、ユリちゃんにしましょう」
みたいな小賢しい会話なんか意味ないのだ。
「えびはらだからエビちゃん」という
直球の向こうに、「はい」と返事する
現物のエビちゃんが登場したら、
それ以上かっこいいことはないのだ。


いろんな変化を見てはたのしんできたぼくだけれど、
この「エビちゃん」という名前を知ったときには、
もうオレは頭をまるめてやり直すしかない、と思ったね。


ちょっとでも「蔵」の富や知識や方法を
あてにしていたら、
エビちゃん」というネーミングに、
反対するほうの側に立っていたということだ。
ちょっとだけ、自分に救いがあるのは、
「うわぁ、負けた!」と感じられたことだけだった。


反省したから、反省文を書く。
というわけで、今回の『ダーリンコラム』になりました。


http://www.1101.com/darling_column/2006-07-10.html


エビちゃんは、キャッシュだ>


「へっへっへ、世の中銭や、ジェニなんや!」
と聞くと、なんかすごい。
こんなふうに言い切られたら、
反論できるほどの信念を
自分が持ち合わせてないことに気付いて
だいたいの人が、たじろいでしまうにちがいない。


これを絵で想像するとしたら、そこには「銭」が
「現金=キャッシュ」として
描かれているのではないだろうか。
札束がひらひら飛んでいるようなシーンだ。


ちょっと昔の映画などでも、よくあった。
部屋中に敷きつめられた紙幣の海に、
裸の女性が泳いでいるような場面。
そこに笑い転げながら、悪い男が飛び込んでいく。


ギャング映画などでも、銀行から強奪した札束が、
トランクからこぼれて
ひらひら道路に舞うような場面は、お約束だ。


あれが、貯金通帳に並んでいる数字だったら、
迫力はまったくないだろうなぁと思う。
最近のなんとかファンドとかの経済事件とかで、
100億円だとか1000億円だとかいう数字が
よく登場するけれど、
その数字について感情的に怒っている人はいなそうだ。
顔を真っ赤にして「けしからん!」と、
言ってるおやじが少ない理由は、
現金という絵が見えないからなのだろう。


昭和43年に起こった有名な「3億円事件」では、
その現金がジュラルミンのケース3箱で、
運ばれたということだ。
この犯人を英雄視する者もいたし、
憎む者もいたけれど、
その感情の根本にあるエネルギーは、
ジュラルミンの箱3つ分の現金というかたちで見える。
そのものさしで、1000億円をビジュアライズしたら、
ジュラルミンの箱1000個分ってことになって‥‥あらま、
また現実的な絵が見えなくなっちゃった!


いや、こういうことを言い出した理由がある。
「現金=キャッシュという概念」がおもしろい
と、思ったのだ。


人間は‥‥っていうか、ぼくらは、
目に見える手持ちの10000円と、
数字というかたちで権利として持っている10000円が、
同じものだという理屈を知っている。
「同じです」というルールの下で生きている。


しかし、同じだというルールはルールなのだけれど、
ほんとうは同じじゃないのだと、思ったのである。


バッタ屋という商売の人たちは、
「キャッシュ」を持って、
仕入れに出かけて行くらしい。
不良在庫になっているような商品を、
安く安く買いたたいて、値段が決まったら
さらにもう一度押す。
「キャッシュや、これだけにしときぃ」
というような感じで、有無を言わさず
仕上げの値引きをさせる。
「キャッシュ」も、数字も、
おなじ金額なら同じ価値、
ということになっているのに、
これが効くのだ。
(いや、ぼくは見たわけじゃないんですけどね。
テレビのドキュメンタリーで知ってるだけっす)


知ったようなことを言って申しわけない。
でも、そういうものだ、ということは言えるだろう。


「あんな男とデートするくらいなら、
 死んだほうがいい」
みたいなセリフを言う人は、いくらでもいる。
大げさな言い方をする人たちだ。
デートするとかしないとかで、
死ぬことはないだろう。
さらに、その「あんな男」というやつが、
「キャッシュ」を持ってきて口説いたら、
どうなる?
むろん、「そんなの関係ない」
という人の方が多いだろう。
「何千億兆まん円」積まれたって、
人の心は動かない。
それはそれで、正しい判断だと思うし、
その言葉を疑うつもりはない。
でも、快か不快かは別として、
目の前に、誠心誠意を告げられながら、
札束が積まれていったら、
誰でも、相当にドキドキすると思うのだ。


「キャッシュ」を前にして、
「うん」という言うかもしれない自分について、
一度や二度は想像してみたほうがいいと思う。
世界文学に描かれているような、
人間と取引する悪魔は、
現実の世界では、
そんなふうに「キャッシュ」を媒体にして
現れるのではあるまいか。


「キャッシュ」というものは、たぶん数字でもなく、
価値そのものですらなく、
もっと暴力に近いようなスゴミを持ったパワーなのだ。


「キャッシュ」は、ほんとうの価値とは別の輝きであり、
匂いであり、魔力というものである。
そして、しかも、とても魅力的なのだ。


こんな「キャッシュ」
というコンセプトを考えついたのは、
SMAP X SMAP』という
テレビ番組を観ている時だった。
ゲストが、蛯原友里押切もえというモデルの二人、
エビちゃん」と「もえちゃん」なのだ。
白い大きなウエディングドレスみたいなものを着て、
ゲスト席にいるのだった。
このエビちゃんたちがいるということについて、
SMAPのメンバーズの、もう、うれしそうなこと!
どんな大物と言われる人たちが来た時よりも、
全員が弾んでいるのだ。
会話の内容だけを取り出すと、
まったく逆に、エビちゃんたちのほうが、
「中学生のころから憧れだった
 SMAPに会えてうれしい」
ということになってしまうのだけれど、
画面から伝わってくるのは、そうじゃない。
SMAPの男のコたちは、イソイソしている、弾んでいる、
気を引こうとしている、
狩人になっているように見えた。


このときに、
「キャッシュ」という概念が生れたのだった。
SMAPのメンバーズの芸能界での価値は、
いわば、スイス銀行に口座を持っているようなものだ。
財産家であり、
憧れられたり尊敬されたりしているような
価値のかたまりのような人たちだということになる。
しかし、エビちゃんは、
総資産ではSMAPに及ばないけれど、
「キャッシュ」としてそこにいるのだ。


人気にも、「キャッシュ」と、
「キャッシュでない数字」とがあると思いついたのだ。


いま、エビちゃんとは、最大の「キャッシュ」なのだ。
そのコンセプトの発見には、
自分でも感心してしまった。


先日まで「レイザーラモンHG」は、
かなりの「キャッシュ」だった。
「テツ&トモ」も、かつて「キャッシュ」だった。
小泉チルドレンの「杉村太蔵」議員も、
金額はわからないけれど、
「キャッシュ」として流通する。
「娘十八、番茶も出花」ということばは、
「十八歳くらいの女性は、
 キャッシュだぞ」という意味だ。


名前を人に知られた誰や彼は、ほとんどが、
「キャッシュ」である時期を経過していると思う。
「キャッシュ」として流通している間に、
少しずつ貯金をしたり、投資をしたり、
事業を起したりして
「財産」を形成していくのが一般的なやり方だ。
SMAPなんかの場合は、大きな財産を持ちながら、
「キャッシュ」として機能し続けているからスゴイ。


「キャッシュ」は、生々しくて、下品で、と
蔑まれつつ眩しく光る暴力である。
大きな「財産」を持ちながら
「キャッシュ」を持ち合わせてないというような人も、
かなりいるような気がする。
そういう生き方もあるし、
それを目指している人もいる。
借金してでも手元の「キャッシュ」を見せたくて、
自転車操業をしている人もいると思う。
それはそれで、物語としておもしろそうだ。
「キャッシュ」に群がって、
そこでメシを食う人々もいる。


「キャッシュ」は、
金額の多寡とはあんまり関係ない。
1億円の定期預金より、5億円の国債より、
多くの利益を生み出すのは
たった100万円の「キャッシュ」かもしれない。
そんなふうにも思える。
これは、経済の教科書には書いてなさそうだけれど、
「芸能」や「宗教」の秘伝書には、
大原則として記されているような気がする。


(以上ほぼ日の「ダーリンコラム」より引用)