「魍魎戦記MADARA」の世界観からアメリカのネオコンを読み解く


(今回の連続 飛ばし読み可)


八柏龍紀著『「感動」禁止!「涙」を消費する人々』と同時に購入した本がある。
大塚英志著『戦後民主主義リハビリテーション』である。
この著者の本を読むのは初めてである。もちろん名前は聞いたことがあった。
「おたく」の精神史 一九八〇年代論」などにみられるオタク研究者の一人かな、という感じ。
読み始めてまだ半分も達してないけど、まぁいろいろと気付いたこともあるので、
メモ書き程度に記しておこうと思ったのだ。
ゆくゆくは、このメモを起点にして、
「お金」と「消費」「バブル」にもたどり着くはずだから。


(飛ばし読み ここまで)


で、あとから気付いたんだけど、俺はこの人の著作に実は触れたことがあった。
この人って「魍魎戦記MADARAシリーズ」の原作者だったんだね。
俺は、良くも悪くも自分自身がオタクではないってはっきりと言い切れるけど、
サブカルにはどちらかといえば興味があるほうで、
サブカル的に無理やり自己規定するならば、ものごころついた時に
ファミコンがあったっていう「ファミコン第一世代」っていう気がする。


ファミコンといってものめり込んでいたのは、人それぞれだろうけど
自分に関していえば、ドラクエファイナルファンタジー(FF)の
2大ロールプレイングゲーム(RPG)がダントツだった。


大塚英志のいう「あらかじめ定められた世界で『自由』に動き回れることに慣れ親しんだ」
最初の世代こそ、俺を含む「ファミコン第一世代」のことではないだろうか?


まあRPGにのめりこんだ当時の僕は、当時ちょっと流行っていた
ゲームブックにのめり込み、もちろんほとんどはファミコンの変形だったけど
その結果テーブルトークRPGなる世界があることも知った。
といっても実際にそんな集まりに参加したわけではなく「ソードワールドRPG」
という本を買って読んだことがあるだけであるが。


あとは
クロちゃんのRPG(ロールプレイング・ゲーム)千夜一夜〈1〉 (富士見文庫―富士見ドラゴンブック)
という本を古本屋でたまたま見つけて読んでみたら
当時の俺にはすごい面白かったというか勉強になったという印象がある。


RPGの何がおもしろかったかっていうと、
やっぱりその独特の世界観というものの存在である。
今考えると確かに多少の現実逃避の意味合いもあるかもしれないが、
この現実世界以外に自分が自由に動き回れる空間があるというのは
単純にめちゃくちゃ楽しいことだと思う。


そしてその中には、宗教的なことがらや、現代科学文明のとらえ方など、
現実世界にフィードバックできる要素もたくさん含まれていた。


だから社会科の歴史という科目が好きであった自分にとっては、
RPGのゲームが提示する世界というのは十分に
当時の僕の知的好奇心を刺激し、満たすものだったのだ。


そういう意味で「魍魎戦記MADARAマダラシリーズ」というのは、
当時マル勝というゲーム雑誌に連載されていた漫画だったのだが、
マンガの最後に毎回世界観の設定資料がつけられていたという点で、
私におおいなる影響を与えたといえる作品である。


たかがゲーム、たかが漫画、つまりたかがサブカルだが、
そういった世界観は当然現実世界のこれまでの人類の歴史から発想されたものであり、
そこにあるテーマは十分に現実世界にフィードバックされうるものだと思う。


例えば、現在のアメリカ合衆国を牛耳っているといわれているネオコンは、
いろいろな理由をつけて世界に軍隊を派遣しているが、
その思想的なメカニズムの一つに、キリスト教原理主義のとなえる理想郷
千年王国」の創設という発想がその背景の一つとしてあると言えるのだが、
千年王国」なんていう発想は、キリスト教根本主義派(ファンダメンタリスト)と接する
機会のない日本人にとっては、その研究をしたりしている人を除いてはほとんど知る機会が
ない。だが、「魍魎戦記MADARAシリーズ」をその世界観まで読み込んでいた人にとっては、
「ああ、あれか。」と思えるものであると言えるのである。


と、ここまで書いてきてびっくりした。
今日は、戦後民主主義についてその是非を問う第一歩の文章を書くつもりだったのに。
ドラクエとFFの世界観の違いというテーマで書きたいが次回に譲る。


最後にちょっとだけ問題提起を。


・「戦後民主主義」は日本の「理想主義」の教育と密接な関係があると思う。


・私は「理想主義」より「現実主義(リアリズム)」をもっと重視する必要があると漠然と思っている。


・だから「戦後民主主義」と呼ばれているものは批判対象である。


・だが、「現実主義(リアリズム)」をもっと重視する必要があるのは、
 ミクロつまり個人単位の発想・教育としてでのことであると最近一方では感じるようになった。


・それは、裏返せば、マクロとしては「戦後民主主義」を
 ある程度肯定的にとらえてもいいのではないか?という仮説を私に生じさせた。その検証をしていきたい。


尻切れだが今日はここまで。