2005年は日本に「下流」という概念が広まった年

(今回の連続 飛ばし読み可)


ここんところ忙しくてブログを書く暇もリアルになかった。
仕事的には、会社員としては前進している気がしないでもないが、
職業人としてのスキルアップ、ステップアップを考えると、
やや視野が狭くなっている様な気もする今日この頃。


目の前のことを一生懸命にこなすのは悪いことではないが、
そのために自分のやりたい企画とかを実現させるのをサボって
しまうのは、いかがなものか?と、ふと立ち止まったとき思ったりする。


(飛ばし読み ここまで)


いつのまにか12月になっていたので、今年の総括でもしようかな、と。
タイトルにも書いたが、今年2005年は日本に「下流」という概念が広まった年、
として将来的には振り返られるのではないだろうか。


以前から、村上龍が21世紀の日本のキーワードは「格差」だ、と言っていた気がする。
(以下、2023年10月2日(43歳)の時に追記。ついに正確な出典がわかったため。
 ※出典「村上龍 置き去りにされる人びと すべての男は消耗品である Vol.7」
  

  2001年1月6日 17:07 日本、日本人という主語の限界 より抜粋
  『日本人や、サラリーマンやOLや子どもや老人をひとくくりにしてはいけない。
   (中略)
   その違いは多様化という言葉では言い表せない。
   多様化というのは、様式が多くなるということだが、現状は違う。
   “格差”が発生しているのだ。』
  ※当時、エロ本雑誌のモノクロページに載っていたこの文章を
   リアルタイムで読んだ時、私は21歳、大学2年生で
   かなりの影響を受けた。
  『きっかけと秘訣があれば誰だって成功できるという(のは)幻想だ。
   (中略)
   誰にでもチャンスがある、というのは嘘でも幻想でもない。
   だが、自分はどういう人生を望むか、という戦略がない人間には
   最初からチャンスがない。自分が何をしたいかがわかっているから
   その目標に従って科学的な努力が可能になる。
   戦略を行使するためのモチベーションの対象を持っているか
   持っていないかですべてが決まってしまう。
   (中略)
   残酷だが、モチベーションの対象を探す年齢には限界がある。
   わたし(村上龍)の考えでは、二十八歳というのがその年限だ。
   二十八歳までにモチベーションの対象を探せないと、
   人生を選び取ることはむずかしくなる。簡単に言うと、
   他人にただこき使われるだけ、ということになってしまうのだ。』
   ※いやー、この文章を読んでなかったら今の自分はおそらく100%なかった
    と思えるほど人生の芯を食ってるアドバイスな気がするけどな。
    このブログ記事を書いたのが25歳。あと3年しかない。
    なんとかして28歳までに自分のメシを食っていけるジャンルは何か?
    必死で見つけ出さなきゃと思って頑張ったから今の自分があるんだもんな。
    ありがとう!村上龍さん!脱線が過ぎたので、話を元に戻します。
    2023年10月の追記ここまで)

   
で、私もなんとなく21世紀の日本のキーワードは「格差」だろうな、とは思っていた。
戦後の高度成長期を経て、日本は総中流社会になった、と言われていた時期があった。
これは、もちろん当時の個々人の実態を厳密に数字的なデータとして捉えた場合、
それはそれで幻想に過ぎないのだが、大事なのは、意識の問題で、日本に日本人として
暮らしている人の大部分が「私は少なくとも中流程度の暮らしをしているだろう」と
感じることができていた時代があったというのは、少なくとも事実であろう。


そんな少なくとも意識的には総中流社会であった日本の社会が、
実際の統計上のデータはもちろんのこと、ついに意識のレベルでも
下流」だと感じる人が今後どんどん増えていく、そんな未来へと
つながっていく、2005年はそのはじまりの年であるような気がしてならない。


パラサイト・シングル、フリーターや引きこもりなど、
格差の原因となりうるキーワードは21世紀を前後して以前から世の中にはあった。
そして、2003年の2月25日には森永卓郎という人が
年収300万円時代を生き抜く経済学 給料半減が現実化する社会で「豊かな」ライフスタイルを確立する!」を出版した。
大きくはこの本が最初にこれからやってくる日本の未来をセンセーショナルに予見したといえるだろう。


しかしながら、2005年にはついに、2004年11月に出版された
希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」という本が話題となり注目された。
著者は「パラサイト・シングル」という言葉を生み出した山田昌弘という人である。
日本社会が「将来に希望が持てる人」と「将来に絶望している人」への分裂過程に入った、
すなわちそれは「希望格差社会」の到来を意味しているという趣旨である。
上で挙げた「年収300万円の時代」との違いは、日本人それぞれの意識がどのように
これから変化していくかという部分をうまくつかまえている点が非常に興味深い。
ついに「格差」という言葉そのものが日本社会を表現するキーワードとして
表舞台に立ち始めたといっても過言ではないだろう。


そして今年2005年の9月20日には、「下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)」という新書が出版された。
著者は、三浦展という人。この本では、以下のような表現がある。


(ここから引用)


下流」とは、単に所得が低いということではない。
コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、
つまり総じて人生への意欲が低いのである。
その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。
そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。
その方が楽だからだ。


(引用ここまで)


これを読んでいろいろと反感を持つ人もいるだろうが、
下流」というのが、単に所得が低いという客観的な事実だけでなく、
人生への意欲が低下しているという意識的なレベルの問題として捉えている
ところにいろいろと考えさせられる部分がある。


私は「下流」が誕生した日本社会で、自分はもちろんのこと、
特に同世代の一人一人がどうやってサバイバルしていけばいいのかと、
フリーターやニート、引きこもりなどのテーマをひっくるめて考えるとき、
「夢」「希望」「やりたいこと」、さらには本当の意味での「成功」などの
キーワードとそれらの関係性をはっきりさせることが、
突破口につながるのではないか?と思っている。


今回はもうそろそろ朝になって明日の仕事が気になりだしたのでここまで。
次回はこの2005年のキーワード「下流」を含む日本社会の「格差」について
ミクロな視点で仮説を立てていきたいと思う。