小説の可能性、天才領域など 〜「呼人」を読んで〜

(今回の連続 飛ばし読み可)


今年も気がつけば早いものであと10日もない。
さすがは師走といったところか。
最近も、あいかわらず仕事に忙殺される日々。
そんな中、合間をみて読書して息抜きをする。
しかしながら、読んだ本が予想外に面白く、ハマッてしまい、
先の展開が気になってしょうがなくなると、
ついつい仕事に戻るのを先延ばしにしてしまったり、
ただでさえ少ない睡眠時間を図らずも削ってしまったりする。
しかし、そんな本と出会えた喜びの方を大事にすべきなのだろう。


(飛ばし読み ここまで)


今回、久しぶりにのめり込みながら、楽しませてもらった小説が、
野沢尚の「呼人 (講談社文庫)」である。
12歳で成長が止まってしまい、そのまま年をとらず、
「永遠の命」という宿命を図らずも授けられてしまった、
永遠の12歳、呼人(よひと)の物語。


まさに私のツボにぴったりとはまってくる作品だった。
・まず設定が面白い、フィクションを設定する上手さをなにより感じた。
・「12歳という年齢で永遠に生き続ける少年」という存在を設定することにより、
 「戦後の日本社会のこれまで、さらにはこれから」、
 「アメリカという国」、「宗教(戦争)」
 「日本人にはわかりずらい、絶対的な存在としての神というテーマ」
 などなど、あげればきりがないが、 
 こんなにもさまざまなテーマを浮き彫りにしつつ、
 なおかつストーリーの先が気になるという上質なエンターテイメント性を
 併せ持つ小説を書くことができるとは、ただただ脱帽である。


私の夢のひとつは、まさに上記したような小説を書いて、世に送り出すことである。


さらに言えば、私は個人的に、世の中に「常識」とは異なる「真実」が存在するならば、
その表現方法としては、「フィクション」こそ「ジャーナリズム」の限界を唯一超えうる
表現方法であり、「最強の暴き系である」と常々思っている。


私が「副島隆彦」や「佐々木敏」に期待しているのは、
世の中の「常識」とは異なる「真実」の「暴き」やその手がかりとなる「情報」である。
もちろん、客観的、学問的、統計学的アプローチ法や、ジャーナリスティックな手法、
つまり、細かい事実やデータの集積からもたらされる結論、というのを全く無視するという
わけではないのだが、それによってはたどり着けなかったり、見えなかったりするものが
この世の中にはきっとあると私は常々思っているのである。
(かといって私は神秘主義者ではない。しいていえば、仮説主義者である。)


そういう意味で、「小説」とは、世の中の「常識」とは異なる「真実」が存在する
という「仮説」を「フィクション」という形式を使うことによって表現できるのである。
村上龍が、小説には情報がなければいけないといっているのは、
私流に解釈すれば、仮説の提示こそが村上龍のいう情報であると思う。


村上龍」の「愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫)」「愛と幻想のファシズム(下) (講談社文庫)」という作品は、
まさにそういう作品だったと思う。私は、「愛と幻想のファシズム」のような小説を
いつか書けるようになりたいと思っているのである。


しかしながら、一方で、「小説」とはやはり「エンターテイメント」でなければならないとも
私は思う。どんなに、仮説の提示=情報が含まれていても、読んでいてつまらなければ、
その小説は、あたりまえだが、駄作である。


その意味では、佐々木敏の「龍の仮面(ペルソナ)〈上〉 (徳間文庫)」「龍の仮面(ペルソナ)〈下〉 (徳間文庫)」は
駄作だったと言わざるを得ないかもしれないと思うのである。
私が小説に求めている要素は、多分に含まれている小説ではある。
設定は面白いと思うし、仮説の提示=情報性も多分にある。
だが、いかんせんたいして面白くはなかったというのが正直な感想である。


佐々木敏の処女作ということになっている「ゲノムの方舟 上 徳間文庫 さ 27-1
ゲノムの方舟 下 徳間文庫 さ 27-2」の時は、情報性があまりにもインパクトのあるものだったので、
その分、ストーリーや小説としての面白さにそれほど不満は感じなかったのだが、
龍の仮面にかんしては、情報性よりもストーリーや純粋な小説としての面白さに欠けるのでは?
という印象の方が、より読後の感想としては適切なものであった。