※ネタバレあり!最後の謎を解説!『トリック劇場版ラストステージ』


2014年明けましておめでとうございます!


2014年1月11日公開『トリック劇場版 ラストステージ



公開初日でしたが、さっそく鑑賞してきました!


見終わったあとの率直な感想は、


“「SPEC」の完結編の100倍はちゃんと作ってるやないか!”


というものであり、とても良かったです。(お金払って劇場で見ていいと思います)


14年間つきあい続けたファンの期待に添えるものにちゃんとなっていたと思います。


(※個人の感想です。補足するとSPECの完結編でちょっとがっかりしていたため、


 あまり期待していないで観に行ったたのが、功を奏しただけかもしれませんが…)


てか、やれば出来るなら最初からやってくれ!


ただ、映画を見終わった方の中には、


出来は良くて映画には満足したけど、「最後なんで○○は○○だったの?」


という部分がモヤモヤして眠れない人もいるかもしれないので、


おせっかいながら、「最後、○○が○○だった」トリックをこれからネタばらししてみます。


以下、ネタばれ注意です!(見たい人だけスクロールして、下へGO!)
































【ここからネタばれ開始】


最後、○○が○○していて本当に良かった!


とみんながみんな思ったと思います。


でもどうやって○○は○○することが出来たのでしょうか?


(ここまで念のため伏字)※以下、完全にネタばれですよ!


もう、いいですかね。そう、これから解き明かすトリックは、


「最後、山田奈緒子が生きていた」のは本当に良かったと思うけど、


どうして生き延びることができたのか?というトリックの種あかし(仮説)です。


「私だって、うすうす生きてるんじゃないか?と思っていたよ」というあなた!


気づいたのは、どの段階ですか?


刑事2人が入浴している時に、「南の島で女の子が発見されました!」っていう


電話がかかってきた時ですか?


もちろん、そこで気づくのも正解です!


でも、そこで気づいただけでは、なぜ脱出できたのか?


というトリックまではたどりつけないのだと思います。


ちなみに、このトリックを解くことが出来た人は、


山田奈緒子が火を液体ガスに引火して爆発が起こった


まさに、その瞬間に「良かった!山田奈緒子は生きているはずだ!」と


思ったはずです。


ヒントは、映画の冒頭の山田奈緒子に仕掛けられたドッキリです。


ピンときちゃいましたか?


映画をもう一回見に行くか、のちにDVDを借りてもう一回みる機会があったら


是非、あの「地底で火が液体ガスに引火して爆発が起きるシーン」を見返してみてください。


そうすればおそらく、山田はあのとき、


「日本のドッキリの時と同じように下に落ちたのだ。だから助かることが出来たんだ!」ということが


一瞬の映像か、少なくとも、ドッキリにかかって出した時と同じ種類の悲鳴を上げることで


わかる人にはわかるようになっているはずです。


では、仮にそうだったとして、なぜ、そんな奇跡のようなことが起きたのか?


それは、まじない師のまじないは「霊能力」だったのか?それとも「トリック」だったのか?


というところがヒントになります。


まじない師のまじないは、「巨大な火の玉が襲ってくる」という予知夢以外は、


「霊能力」ではなく、すべて「トリック」だったということが、


火をつける前までのシーンで明らかにされています。


つまり、まじない師に特殊能力などないわけです。


でも、「地下のガスに自分で火をつけて島の住民は救わなければならない。」


それが「民の救世主」といてかつがれた「まじない師」の宿命なのだと。


上田に向かっていった山田のセリフそのものです。


それにしても、山田が地下の火をつけるべき場所までいったとき


ずいぶん準備がよかったような気がしませんか?


そう、まじない師は自分が死ぬとは思っていなかったので、


自分が壁画の予言通りに、地下におりて、その火をつけようと思い、


事前にいつか火をつけるための祭壇のようなものを自分の手で作っていたのです。


そして、その時、気づいたのです。


「あっ、そうか。爆発したときに、その影響が及ばないところまで、


 自分が逃げれる穴を掘っておけば、死なずにすむじゃないか!」と。


そう、山田は、まじない師が自分が助かるために掘っていた穴に


落ちることによって命を失わずにすんだのです。(たぶん)


山田はあの時、爆発でふっとばされたのではなく、穴を滑り落ちていたのです。


日本で落とし穴のドッキリにはまるところから映画が始まって、


海外のクライマックスのシーンで再びドッキリのように落とし穴にはまったことによって


命が助かる。とても綺麗な伏線の回収「フリ→落ち」。お見事でした。


まさに完結編の名にふさわしい映画に仕上がっていたと思いました。


しかも、山田は助かったんだろうな〜と思っていても、その後のシーンは十分に


じわじわ感動出来て、ちゃんと泣けましたしね。


あと、良かったのはラストシーン。


これは、説明の必要全くないと思うけど、


出会った時と同じことをやって「本人」だって証明するなんて


14年見てきたファンにとってこんなに納得できるラストは


他にないんじゃないか?と思えるぐらい良かったと思います。


ニクい演出ですが、やっぱり「ベタ」に勝るものなし!


仲間由紀恵さん同い年なんですけど、そりゃ14年たてば、


年も取るよね(笑)でも、その「年をとったなあ〜」って感じさせる


ところ(14年前とのカットバック)が、「ああ最後まで見て


トリック見続けて良かったなあ。いいもの見せてくれて、いままでありがとうございました」


という気持ちになって、映画館を後に出来るというすがすがしさ。本当に良かったです。


SPECもこういう気持ちにさせてくれれば良かったのに…。


劇場版SPEC~結~漸ノ篇 (角川文庫)

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ただ、


・SPECの完結編がちょっと消化不良だったのも、


・SPECの完結編は絶対に一本の映画にまとめられたのに


 わざわざ前後編にして1800円×2=3600円も払わされたのも、


・SPECの完結編をみて、もっと前作までの「津田」のフリをうまく使って回収しろよ!


 「プロフェッサーJは女」っていうミスリードがミスリードだったってどっかでちゃんと明示しろよ!


 なんで「卑弥呼」はこれまで出てきたやつじゃねーんだよ!意味わかんねーよ! 


 「両親」の謎の死をうまく使って、大ドンでん返しのストーリーちゃんと作れよ!


 ちゃんと、「その映画だけを見にきた観客」と「シリーズをずっと見てきたファン」の

 
 両方を「あっなるほど!そういうことだったのか!」とうならせる作品作れよ!


 って思わされたのも、全部、全部、ぜーんぶ、


こっちのトリックの完結編を見て、スカッとさせるためのフリ(わざと)だったんじゃねえか?と


ありえない邪推をさせるぐらいいい仕上がりでした。


(あっ、SPECも当麻と瀬文のラストとかは全然良かったと思ってますよ。


 演じた2人もすごく良かったし。ただストーリーテリングと伏線の回収は


 もっとやりようがあったと思うし、もっとテンポをあげて一本の映画にした方が


 よりよいものになっていた可能性があるな〜と思っているだけで…。


 金を2倍払わされたっていうのもあるし(笑)


 ケチがつきやすい分、SPECの方が損してるよね、きっと。)


ともあれ、堤監督のシリーズものが一気に完結してしまったわけで、


今後の堤監督の新展開、さらなる活躍を期待したいと思います。


今日はここまで。

「正義」とは何か? 〜やなせたかし名言集・アンパンマンの「正義」から考える〜


いつの日か『「アンパンマン」から考える「正義」とは?』


という記事を書こうと思っていたのだが、先にこんな日が来てしまった。


やなせたかしさん>アンパンマンの生みの親、94歳で死去


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131015-00000008-mantan-ent


(2013年10月15日(火)15時0分配信 YAHOOニュースより引用開始)


アンパンマン」などで知られるマンガ家、絵本作家のやなせたかし(本名:柳瀬嵩)さんが
13日午前3時8分、心不全のため都内の病院で死去した。94歳。
遺志により、葬儀は近親者のみで行っており、後日しのぶ会を予定している。


やなせさんは1919年東京都生まれ。高知県で少年時代を過ごし、
東京高等工芸学校卒業後、高知新聞社三越宣伝部を経て、53年フリーに。
マンガやラジオコント、テレビ番組の脚本、映画雑誌の批評などさまざまな分野の仕事を手掛ける。
61年には童謡「手のひらを太陽に」の作詞を手掛け(42歳)、
73年には月刊絵本「キンダーブック」に「あんぱんまん」が初登場(53歳)。
88年にはテレビアニメ「それいけ!アンパンマン」の放送が始まり(66歳)、
89年には劇場版アニメ第1作「それいけ!アンパンマン キラキラ星の涙」が公開され、
その後毎年新作が公開されている。
.

また、2000年に日本漫画家協会の理事長に就任、12年からは会長を務めたほか、
11年の東日本大震災後は復興支援活動にも尽力した。
今年は画業60年、絵本「あんぱんまん」出版から40年、
テレビアニメ、劇場版公開から25年にあたり、
11月には「やなせたかし大全」がフレーベル館から発行される予定。(毎日新聞デジタル)


 ◇「大切な道しるべ喪(うしな)った」 アンパンマンの声を務める戸田恵子さん


やなせ先生こそがアンパンマンそのものでした。
いつでも優しさで私たちを包んでくださり、分けあうことを教えてくださった。
ただひたすらありがとうございましたと感謝を申しあげるしかないのですが、
今は決して無くしてはいけない大切な道しるべを喪った感覚です。
悲しすぎて全く力が入りません。合掌。

(引用ここまで)


『「アンパンマン」から考える「正義」とは?』なんて記事をいつの日にか書こうと


思ったきっかけは、もう12年前になるが、次の文章を読んだ時のことだった。


アメリカでの9・11のテロが起こった直後に書かれた文章だ。


『テロとアメリカ 〜人類の不平等 想像力欠く、ゲリラ戦の教訓 学ぶ必要〜』

 
2001年10月17日 哲学者 鶴見 俊輔氏


http://www.jca.apc.org/beheiren/164Tsurumi%20Interview.htm


(一部引用開始)


 ――アフガニスタンヘの攻撃を米国は「正義の戦い」と言っています。


 「どんなことがあってもテロは許しがたい。
  しかし、米政府のトップには、なぜこんなにもテロが起こるのか考えるゆとりがなかった。
  イスラムの側から米国はどう見えているのか、ということを考えないで、いろんな手を打つのはどうだろう。
  世界を支配できる権力をもった人間が、想像力を欠いている」


――「新しい戦争」とも言っています。


 「新しいというのは、国対国の戦争ではないですからね。
  このような戦争に対処するには国境を越える秩序をつくらなくてはならない。
  それは強国だけでなく、イスラムラテンアメリカを含めないとできない」


 「米国はいろいろな国の人が集まって一緒にいる国でしょう。
  それなのに『善と悪の戦い』と大統領が言ったら、どうにもならない。
  米国内にいる700万人のイスラム教徒はどうなるのか」


 善と悪の定義

 ――「善」と「悪」の定義は。


 「やなせたかしの『アンパンマン』では、悪の定義がはっきりしているんだ。
  クリスマスのプレゼントを独り占めしてしまうのが悪いやつ。
  米国は地球温暖化防止のための京都議定書に加わらない姿勢を見せているけど、
  『アンパンマン』の哲学からすると、おかしい。
  『最も豊かな国が最も貧しい国を攻撃している』ということも、分からなくなっている」


 ――ベトナム戦争と同じですね。


 「米国はべトナム戦争をよく分かつていないんだ。
  第1次大戦の後、カミングズの『巨大な部屋』やヘミングウェーの『武器よさらぱ』といった
  偉大な戦争文学が生まれた。しかし、第2次大戦やベトナム戦争の後は優れた戦争文学が生まれていない。
  米国は殺される人間からどう見られているか、とらえることができない。
  自分を映す鏡を壊してしまい、自分の位置を見つけられなくなったんだ」


(以下、略。引用ここまで)


ひとつ、言えるのは、『「正義」は常にきな臭い』『「正義」を叫ぶやつこそ、疑え』。


これが、一番真実に近いところにある「正義」に関する言葉だと思ってはいるが、


結果論としては『勝ったものが「正義」になる(=勝てば官軍)』が真実に近い気がする。


それが、一番生々しく現われるのが「歴史(の教科書)」であり、勝った者(勝利者)が、


自分に正当性(正義)があったと、なんやかんや理屈をつけて、後世に伝えるのが「歴史」である。


だから「歴史」の裏には、常に、敗れた者(敗者)の側が唱えていた、その時代としては、


本当は正当性(正義)があった「行動原理」や「理想」のようなものが常に必ず隠されている。


しかし、その敗者の正義(正当性)を徹底的に隠ぺいするために


「(勝者の)歴史」=「正(しい歴)史」というものが編まれてきたのだ。


また、『「正義」を自称する者が「戦争」を始める』という、


人間が何千年、何万年、生きてきても、学習できず、変えられない、残酷な法則もきっとある。


だからこそ、『「正義」は常にきな臭い』『「正義」を叫ぶやつこそ、疑え』


というのが、「正義」という言葉を耳にしたときに一番適切な反応だと感じる。


では、やなせたかし氏が考える「正義」とは何だったのだろうか?


時間がないので、ネット検索してみたら、便利なページが!


やなせたかし先生が「アンパンマン」に込めた哲学がすごすぎる!』


http://matome.naver.jp/odai/2131475673692300601


(「アンパンマンの遺書」より引用開始)


・「正義」のための戦いなんてどこにもないのだ。


 「正義」は或る日突然逆転する。「正義」は信じがたい。


・逆転しない「正義」とは「献身」と「愛」だ。


 それも決して大げさなことではなく、


 眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること。


(「アンパンマンの遺書」より引用ここまで)


※でも、実は「愛」は逆転するし、「愛」が逆転すると「憎しみ」になる…から怖いんだけどなぁ…。
 まあ、やなせさんがここで使っている「愛」は「(無償の、ひきかえを求めない)愛」の方であって
 「(男女間の)愛」ではない、から成立してるとは思うけど…。
 ここで「愛」とは何か?って言い出したら堂々巡りになるし、割愛。


(「心に響く世界最弱のヒーロー アンパンマンの正義 〜やなせたかしさんに聞く」より引用開始)


・自分はまったく傷つかないままで、「正義」を行うことは非常に難しい。


・正しいことをする場合、必ず報いられるかというと、

 
 そんなことはなくて、逆に傷ついてしまうこともあるんです。


(「心に響く世界最弱のヒーロー アンパンマンの正義 〜やなせたかしさんに聞く」より引用ここまで)


※うん、「正しいことを真面目にやろうとする子どもは学校でいじめられる」法則もあるからな〜。
 さもあらん。げに、この世は、生きづらい(笑)


(NEWSポストセブン「やなせたかし氏 日本人の正義とは困った人にパン差し出すこと」より引用開始)


・困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、


 立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。


 絶対的な「正義」なのです。


(NEWSポストセブン「やなせたかし氏 日本人の正義とは困った人にパン差し出すこと」より引用ここまで)


※だから、アンパンマンは困っている人、飢えている人に食べ物を差し出すヒーローなのですね、先生。


■そんな「やなせさん」にとって「生きる」とは…?


(【被災地の皆さんへ】漫画家・やなせたかしさん 弱い心をやっつけて - MSN産経ニュースより引用開始)


・生きていることが大切なんです。


 今日まで生きてこられたなら、少しくらいつらくても明日もまた生きられる。


 そうやっているうちに次が開けてくるのです。今回の震災も永遠に続くことはありません。


アンパンマンは“世界最弱”のヒーロー。


 ちょっと汚れたり、雨にぬれただけでも、ジャムおじさんに助けを求める。


 でも、いざというときには、自分の顔をちぎって食べてもらう。そして戦います。


 それは私たちも同じ。みんな弱いけれど、そうせずにはいられないときもあるのです。


(【被災地の皆さんへ】漫画家・やなせたかしさん 弱い心をやっつけて - MSN産経ニュースより引用ここまで)


やなせたかし 「やなせたかしの世界」より引用開始)


アンパンマンのテーマソングは「なんのために生まれて、なんのために生きるのか」というのですが、


 実はぼくはずいぶん長い間、自分がなんのために生まれたのかよくわからなくて、闇夜の迷路をさまよっていました


やなせたかし 「やなせたかしの世界」より引用ここまで)


やなせたかしさん: yumi yoriな話 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)より引用開始)


・もっと若い時に世に出たかった。


 ただし遅く出てきた人というのは、いきなりはダメにならない。


 こんなことしてていいのかと思っていたことが、今みんな役に立ってる。


 無駄なことは一つもないですね。


やなせたかしさん: yumi yoriな話 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)より引用ここまで)


やなせたかしアンパンマンの遺書」より引用開始)


・ぼくら夫婦には子供がなかった。


 妻は病床にアンパンマンのタオルを積みあげて、看護婦さんや見舞い客に配っていた。


 アンパンマンがぼくらの子供だ。


やなせたかしアンパンマンの遺書」より引用ここまで)


※これは、かなりいい話。泣ける。一周して、僕のコード(琴線)に触れるなぁ。


やなせたかし「人生なんて夢だけど」より引用開始)


・人生の楽しみの中で最高のものは、やはり人を喜ばせることでしょう


やなせたかし「人生なんて夢だけど」より引用ここまで)


結論:やっぱり、「やなせたかし」はすばらしい人だった。


惜しい人を亡くしました。が、これを読んで何か「感じる」人がいる限り、


やなせたかし」さんの魂は生き続けることでしょう。合掌。


今日はここまで。

仮説①「風立ちぬ」のユーミンの主題歌「ひこうき雲」は後付けだった、という仮説


まあ、映画を見る前の「風立ちぬ」と言えば、


ユーミンの「ひこうき雲」のイメージですよ、絶対。(←伊坂幸太郎の…以下略)



あのユーミンの曲を映画宣伝=予告のVTRとともに、ヘビーローテーションで聞かせて、


なんとなく「爽やかな、いい映画っぽいな〜。ジブリだし、宮崎駿だし、


間違いないでしょ!」と思わされて、映画館に行った人は日本中にたくさんいると思う。


で、そんな人たちが、きっと、声をそろえて、「期待はずれだった。想像と違った。」


とこの映画を酷評しているという現象が起きているのではないだろうか?


そして、私の勘違いでなければ、ユーミンの「ひこうき雲」は映画の本編中で


1シーンも流れていないのではないのだろうか? そして、もし、それが真実だとしたら


主題歌なのに、なぜ本編が全て終わったエンディングにしか使われていないのだろうか?


その答え(あくまで一個人の勝手な仮説だが、)こそ、


映画「風立ちぬ」における主題歌ユーミンの「ひこうき雲」は、


映画が完成したあと、映画作りとは別に後付けで生み出された主題歌なのではないか?


という仮説である。(以下は、単なる推測である。信じる信じないはあなた次第。)


それは、映画「風立ちぬ」が完成した(あるいは完成直前の)内輪向けの試写会でのこと。


お金を出資していたスポンサーたちは、映画を見て驚いた。


「これは…あまりにも地味だ。しかも、あまりにも今までのジブリ作品と違う。」


「これを、そのまま宣伝しても、今までのジブリ好きのお客さんたちが見に来てくれるとは


 とても思えない。どうしよう…。せっかく5年ぶりの宮崎駿監督の最新作なのに…。


 このままでは、興行収入が伸びず、下手したら次回作が作れなくなってしまうかもしれない。


 
 これまでの宮崎駿作品の公開時のようにお客を呼ぶには、一体どうすればいいんだ?」


こうして、映画「風立ちぬ」をこれまでのジブリファンに今まで通り見に来てもらうには、


どうすればいいのか?その対策会議が日夜開かれたのではないだろうか?


その結果、出した苦肉の策の答えが、“主題歌に「ユーミン」起用”である。


ユーミン」といえば、1989年公開の魔女の宅急便で主題歌になった


やさしさに包まれたなら」という曲も存在しており、


やさしさに包まれたなら

やさしさに包まれたなら

 
魔女の宅急便 サントラ音楽集

魔女の宅急便 サントラ音楽集


“「風立ちぬ」がこれまで通りのジブリ映画である”という幻想を


抱かせるには最適な存在だったはずだ。


しかも、今回のテーマである「ひこうき」と似たようなタイトルの「ひこうき雲」という


楽曲がすでに40年前から存在しているのだ。


さっそく、ユーミンサイドに、主題歌としての使用をお願いすると、快くOKしてくれた。


そして、ここから、スポンサー陣の意向を受けて、ジブリのプロデューサーは、


監督である宮崎駿に相談しにいったのではないか?


P「主題歌にユーミンの“ひこうき雲”を使いたい。


  宣伝は、その曲を全面に押し出すつもりだ。


  だから、ひこうき雲を本編のどこかいい場所、


  クライマックスに近いシーンで使ってくれないか?」


宮崎「宣伝に使うのは構わない。でも「風立ちぬ」と「ひこうき雲」は


   私の中ではイメージが合わない。だから本編で使うわけにはいかない。」


P「わかった。仕方ない。宣伝で使うのは構わないんだよね?」


宮崎「ああ。宣伝は私の管轄外だ。好きにすればいい。


   ただし、本編で使うのは絶対にダメだ。そこは譲れない。」


そう映画「風立ちぬ」は宮崎駿のエゴイズムを(もちろんいい意味で)結集させた作品。


いくら「ユーミン」の名曲であっても、後付けで作品に組み込めるようなものではなかったのだ。


こうして、映画「風立ちぬ」は“「ユーミン」の「ひこうき雲」のような


いままで通りの期待を裏切らないジブリ作品なんだろうな〜”という


幻想のイメージが世の中に大きく広まることになった。


その結果、宣伝を見て「みたい!」と思って映画館にやってきた人の中には


「イメージと違った」「なんか期待外れ」とこの映画を酷評する人たちが


数多く発生することになったのではないだろうか?


何がいいたいか? 


この映画はミスリード(変な先入観)なしに、ちゃんと見れば絶対に「良作」である。


だから、これから見に行く人は、「ユーミン」の「ひこうき雲」と映画「風立ちぬ」を


一度、切り離してから、フラットに見た方がこの映画を楽しめるのではないだろうか?


そして、次の仮説では、この映画「風立ちぬ」のどこが「良作」なのか?


宮崎駿が込めた思い、伝えたかったことをこれまた勝手に推測してお届けしたいと思う。


今日はここまで。


追記


調べてみたら、どうやら上記の80%ぐらい当たっていたみたい。


風立ちぬ」の主題歌がユーミンの「ひこうき雲」になった理由。


http://www.youtube.com/watch?v=2kJ8Yhvxt08



(2013年8月20日現在、まだ再生回数は144回。誰も知らないに等しいですよね。)


(動画見れなくなってから自分で確認したい人は、鈴木敏夫Pとユーミンの対談が


 「ロックキング・オン」から発売中の雑誌「H」113号に掲載されているらしいですよ。)


結論。鈴木敏夫プロデューサー本人が語っていた。


ユーミン」の「風立ちぬ」はやはり、紛れもなく鈴木プロデューサーによる「後付け」だった。


“「風立ちぬ」のユーミンの主題歌「ひこうき雲」は後付けだった”、という仮説は、


仮説ではなく、事実だった。ウソから出たマコト。やっぱり…って感じでもあるけど。


そして宮崎駿は予告編を一切見ていない。どうなっているか知らない。


もともと、宮崎駿は、「この映画に歌はいらない。主題歌は不要だ。」と言っていたそうだ。


僕の仮説が間違っていた部分としては、鈴木敏夫プロデューサーによれば、


宮崎駿におそるおそるユーミンの「ひこうき雲」をしれっと聞かせた時に、


宮崎駿本人も「なんだ、これ。俺の映画の最後じゃん。」と言ったらしい。


もともと主題歌はいらないと言っていた宮崎駿も、一応「ユーミン」の「ひこうき雲」は


風立ちぬ」のエンディングにふさわしい、「いい曲」だと、認めているという部分だろう。


結果的に「風立ちぬ」は興業的にそこそこヒットするだろうから、


やはり鈴木敏夫氏の目の付け所は間違っていなかったと思う。まさに敏腕P。


でも、ますます思った。これから映画「風立ちぬ」を見に行く人は、


ユーミンの「ひこうき雲」と一度切り離してから観に行った方がいいですよ、絶対。(←伊坂幸太郎の…以下略)

映画「風立ちぬ」感想 〜はじめに〜


スタジオジブリ宮崎駿監督最新作「風立ちぬ」を鑑賞した。


見終わったトータルの印象としては、とにかく地味。そして大人向け。


でも、それは決して悪いことではないし、駄作だったとも思わない。


映画全体の中では、やはり「良作」の部類だと思う。


でもまあ確かに、これまでのジブリ映画、中でも宮崎駿監督作品の中では、


一、二を争う「会心」の作品、というわけではないと思う。


むしろ、宮崎駿は今回、そんな評価を拒絶したのではあるまいか?


「どう評価されてもいい。俺は俺の作りたいものを作るんだ。」


そんな宮崎駿のエゴイズムが爆発した作品が、この「風立ちぬ」だったのではないだろうか?


今回は、そんな映画「風立ちぬ」の感想を3つの仮説とともにお届けしたい。


あっ、そうそう。まだ見てない人へ。


とりあえず、子どもは連れていかない方がいいですよ、絶対。


(↑伊坂幸太郎の名作「モダンタイムス」ぐらいの精度ですが…。わかる人だけわかればいいや。)


モダンタイムス (Morning NOVELS)

モダンタイムス (Morning NOVELS)

生きるヒント〜村上龍名言集②小説『69 sixty nine』より〜


69(シクスティナイン) (集英社文庫)

69(シクスティナイン) (集英社文庫)


(以下、69(シクスティナイン) (集英社文庫)より引用)


119P
・話すことで僕は「スター」となった。一つ学んだ。


 暗く「反省」しても誰もついて来ない。(中略)


 だから「楽しんで」いる奴が勝ちなのだ。(中略)


 僕が泣きながら許しを乞えばいいと思ってる奴ら、
 そいつらの憎悪のこもった視線を感じながら、僕は喋り続けた。


 たとえ退学になっても、と心の中でそいつらに向かって呟いた。


 たとえ退学になっても、オレはお前らだけには負けないぞ、
 一生、オレの楽しい笑い声を聞かせてやる…………。
 


124P
・奴らがちらつかせるのは「安定」だ。


 つまり、「進学」や「就職」や「結婚」だ。


 奴らにはそれだけが幸福につながるという大前提がある。


 胸がムカムカする大前提だが、これは意外に手強い。


 まだ何者にもなっていない高校生にとって、手強いのだ。


P128
・女子のマスゲームを見ていると、気が滅入ってくる。


 何かを「強制」されている個人や集団を見ると、
 ただそれだけで「不快」になるのだ。


 
P151
・百十九日も欠席したのに、この教室に何の懐かしさも感じないのは、
 ここが選別の場所だからだ。(中略)


 成獣の一歩手前で、選別があり、分類される。(中略)


 高校生は「家畜」への第一歩なのだ。


P190
・「ボクはね、『自分が嫌になった』だけたい」


 僕とアダマは顔を見合わせた。


 自分が嫌になった、それは十七歳の少年にとって、


 女高生を口説く時以外には、決して口に出してはいけない台詞である。


 誰だってそのぐらいのことは思っているのだ。(中略)


 選別されて、家畜になるかならないかの瀬戸際にいるのだから、当然だ。


 言ってはならないことを言うと、それ以後の人生が確実に暗くなる。


 (中略)


 暗い人間は他人からエネルギーを吸いとって生きるから始末が悪い。


 冗談も通じない。


 

P209
アダマは、一九六〇年代の終わりに充ちていたある何かを信じていて、
その何かに忠実だったのである。


その何かを説明するのは難しい。


その何かは僕達を自由にする。


単一の価値観に縛られることから僕達を自由にするのだ。


 
P238 文庫版あとがき

 
・「楽しんで」生きないのは、罪なことだ。(中略)


 高校時代にわたしを傷つけた教師たち、
 彼らは本当に大切なものをわたしから奪おうとした。


 彼らは人間を「家畜」へと変える仕事を飽きずに続ける「退屈」の象徴だった。


 そんな状況は、今でも変わっていないし、もっとひどくなっているはずだ。


 だが、いつの時代にあっても、教師や刑事という「権力」の手先は手強いものだ。


 彼らをただ殴っても結局こちらが損をすることになる。


 唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも「楽しく」生きることだと思う。


 「楽しく」生きるためには「エネルギー」がいる。


 「戦い」である。


 わたしはその戦いを今も続けている。


 退屈な連中に自分の笑い声を聞かせてやるための戦いは


 死ぬまで終わることがないだろう。


 (1987年4月20日 村上龍35歳の春)


(引用ここまで)


ちなみに、心に響いた方は、こちらもどうぞ。


2006-11-08 生きるヒント〜村上龍名言集①すべての男は消耗品である。〈Vol.2〉 (角川文庫)より


http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20061108/1162930822

「憲法改正はお金持ちになってから賛成しないと損だ」という仮説


いよいよ本題です。(最初から読みたい方は、http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20130723 へどうぞ)


憲法改正はお金持ちになってから賛成しないと損だ」という仮説。


なぜか?というと、ほとんどこちらの記事と一緒になってしまうのですが…


(2013-03-23 「ネトウヨネット右翼)は金持ちじゃないと損するだけ」という仮説


 http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20130323 )


憲法が改正され、国防軍が創設されたとして、将来的に政府から、


「これ以上は我慢出来ない。みなさん共に韓国と中国を倒しましょう!」


と呼びかけられた時、いざ戦争に行くことになり、早死にするのは誰なのか?


これをそろそろ真剣に考えて、自問自答すべき時が来ていると思う。


戦争に行くことになるのは誰か? その答えは「貧乏人」と「国防軍(今の自衛隊)」である。


戦争が始まったら、徴兵制が敷かれる可能性は十分あるでしょう。


この流れになった時、憲法改正に賛成した人も、


やっぱり「戦争とかだるいな〜」「痛そう」「まだ死にたくない」と思うかもしれません。


その時、「戦場に行かない」という選択肢を持つためには何が必要かわかりますか?


そう「お金」です。


古今東西、戦争が始まった時、「金持ち」は戦争に行きません。


「国」にたくさん税金を納めてくれる人たちがいなくなると国家が困るからです。


よって、戦場に行かされるのは常に「貧乏人」です。


だから『憲法改正はお金持ちになってから賛成しないと損』なのです。


それでも「憲法改正」に賛成したい方は、悪いことは言わないので、


まずは、それなりの「お金持ち」に先になって下さい。


「お金持ち」になってからそれでも「憲法改正」に賛成したいならば、私も止めません。


「空気」で全てが決まってしまう国「日本」。


この国が、この先、戦争に突入しないためには、


憲法改正に賛成しようと思う」方々が、上記のことを認識して、


やがて戦争に行かされる可能性が自分の生活、


さらには将来的には自分の子供にまで迫りくる事として、


「戦争とかだるいな〜」「痛そう」「まだ死にたくない」、


あるいは「うちの子だけは戦争にいかせたくない」と感じる・思うこと


つまり「自己中=消費者主権」を発揮する以外に避けられないと思うからです。


参照)「消費者主権」が平和を守る 鶴見俊輔


http://www.jca.apc.org/beheiren/saikin26tusurumi-shouhishashuken.htm より引用開始)


 いまの社会を語るとき、「消費者主権」の概念を指摘できます。


 以前、プロ野球(当時)のイチローがキャンプ地の宮古島で、


 「ホテルの近くにコンビニがあれば十分な環境です」と言ったことがあるでしょ。


 高級レストランで毎日うまい飯を食いたいと言わず、


 24時間好きなときに食べたいものを選べるコンビニエンスストアを恋しがる。


 消費者主権のありようが巧みに表現されていた。


 いわゆる「ジコチュー」(自己中心)なのです。


 かつての高度成長から時間がたち、消費者個人の価値観が社会に大きな影響を与えている。


 そんな時代になったということです。


 (中略)


 30年前の「べ平連」の運動には、「殺すな」を合言葉に100万人が街頭に出た。


 いまは大義から平和を訴える言葉は聞こえません。


 それでも、いまの社会に希望をもてるのは、国民に消費者主権の考え方が浸透しているからなのです。


 消費者主権の立場から戦争と向き合ったらどういう答えが出るだろう。


 「自分は殺されたくない」。そのひとことにつきるのではないかな。


 反戦、平和を語るとき大切なのは大義ではなくまず、自分はどうするかを考えることだ。


 限りなく「ジコチュー」でありなさい、と言いたい。


(『朝日新聞』 京都版 2001年6月30日号より 引用ここまで)


 自己中(ジコチュー)に考えたとき、ちょっとでも「自分は殺されたくない」


 あるいは、「うちの子だけは戦争にいかせたくない」と考える


 可能性がある方が「憲法改正に賛成」したいならば、「お金持ち」になるのが先決です。


 雰囲気で、「貧乏」なまま「憲法改正」に賛成してしまったら、


 いつの間にか取り返しのつかないことになるかもしれません。


 そうなってからでは遅いのでは?と一度自問自答してみて下さい。


 今日はここまで。

あまり知られていない「自衛隊が合憲だ」とする現行憲法9条の理屈


まず、最初にはっきりさせておきたいのは、これからする説明は、


「高学歴人間にありがちな単なる屁理屈だ」と個人的には感じるが、


それでも、現行憲法のままで改正しなくていいと思うし、


すなわち自衛隊も合憲なのだから、存続しつづけていただいて、


大いに国を守るために頑張っていただきたいと思っている。というのが私の立場である。


まあ、もう今時そんな人いないと思うが、


憲法戦争放棄をうたってるんだから、自衛隊は廃止すべきだ」


自衛隊を廃止して永世中立国として“東洋のスイス”を目指すべし」という方がいたら、


永世中立国としての立場を維持するために、スイスは重武装国家である」


という現実から目をそむけてはいけないと思います。現実を直視しないと…。


「平和」を実現するには、「軍隊」が必要不可欠。


残念であろうとなかろうと、これが「世界の常識」であり「現実」ですよね。


さて本題の日本国憲法の第9条を見てみましょう。


日本国憲法 第九条


(第一項)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、


     武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


(第二項)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


2013年現在の日本政府の公式見解としては、


「日本の自衛隊は、第二項の『戦力』に値するような力はない。


 「戦力」は保持しないけど“『戦力』に至らない程度の実力”なら保持してもいい。だから合憲だ。」


と言ってるんですが、さすがにこれは苦しい。と個人的には思います。


で、政府の公式見解ではないですが、多くの憲法学者などが苦々しい気持ちを抱きながら


しぶしぶ現状を受け入れているのが、「限定放棄説」という解釈です。


かつて民主党政権だった2012年の頃、無知なまま防衛大臣になった田中氏に


自民党の石破氏が国会の質疑でそれとなく示唆した考え方(解釈)でもあります。


肝になるのは、(第二項)の最初の文言「前項の目的を達成するため」という部分です。


日本国憲法は、マッカーサー率いるGHQ(SCAP)が起案した“押しつけ憲法”ではありますが、


この「前項の目的を達するため」という部分だけは、押し付けられたのではなく、


日本人が(GHQにバレないように)ねじこんだものです。(笑)


ねじこんだのは誰か?芦田均という東大法学部出身で官僚経験者の元首相です。


あっぱれ!というべきでしょうか?たぶんこの件に関してはいうべきでしょう。


たぶんこの「前項の目的を達するため」という部分がなかったら、


吉田茂アメリカからの軍備の増強要求をのらりくらりとかわし続けることは出来なくて、


あの「ALWAYS 三丁目の夕日」のような懐かしみたくなる古き良き高度成長も達成できず、


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バブル崩壊まで続いた飛ぶ鳥を落とす勢いで「JAPAN AS NO.1」と言われるような時代はなかったでしょう。


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また脱線しました。汗) 本題に戻します。


なぜ平和憲法をかかげているのに自衛隊は合憲なのか?どういうことか?というと、


「第二項をご覧ください。『前項の目的を達するため』と書いてありますよね。


 これ、どういうことかと説明しますと、第一項で書かれている『国際紛争を解決する』という目的を達成するための戦力、


 つまり、侵略戦争のための戦力は放棄したけど、自衛戦争のための戦力を放棄するなんて一言も憲法では言ってないんですよ。


 あえて第二項に『前項の目的を達するため』という文言が書かれているのがその証拠です。」という理屈です。


まあ、屁理屈っちゃ屁理屈ですよね。でも、この屁理屈が戦後の日本を守ってきて、経済成長にも寄与してきたのは、


まぎれもない事実です。ちなみにこの「前項の目的を達するため」というのをねじ込んだことを俗に「芦田修正」と呼びます。


憲法改正論者は言うでしょう。「自衛隊があるという現状に憲法は即してない。」


「今こそ、現状に見合った状態に憲法を改正するべきだ」と。


でも、そんなことする必要ある?って思いませんか?


憲法9条が仮に今のままでも、生活は困りませんよね?


でも、憲法改正論者の口車に乗って、憲法改正に賛成したら、


もしかしたら、生活に悪影響が出るかもしれませんよ。