園子温の「非道に生きる」の意味とは?〜村上龍と園子温の意外な共通点を発見!


まず、はじめに。


ドミナント・モーション(=主題反復)という英文の読解法がある。


その概念を実生活に応用し、「数珠つなぎ」をかけあわせる。


すると、そこには「発見!」が生じることがある。


(「ドミナント・モーション(主題反復)」×「(人と人との)数珠つなぎ」=「発見!」)


で、そうなった時は、SPECの当麻風に言えば、


めちゃくちゃ「高まる!(興奮する・ワクワクする)」



そうすると「発見したこと」を誰かに「伝えたく」なる。


それが「表現衝動」である。


これを繰り返して行くのが「私の人生=自分という現象の連続」なのかもしれない。


何を言っているのか、さっぱりわからないと思うが、この長い文章を最後まで読んでいただければ


意味はわかると思う(信じたい)。でも誰も最後まで読まないと思うので、


最初に結論を書く。


・映画監督の園子温監督がいう「非道に生きる」とは、村上龍の「用事のない生き方」と同じ意味であり、


 それはさらに甲本ヒロトがいう「飽食の果ての飢餓」とも同じ意味であり、


 もっといえば、水道橋博士のいう「世の中とプロレスする」とも同じ意味である。


彼らは、それぞれ「違う表現」で何かを訴えかけているが、実は全て「同じ意味」である。


つまり、彼らを数珠つなぎしてみると、


そこに「ドミナント・モーション(主題反復)」が発生することを発見したのである。


これは「世の中で本当に価値のある情報は(無意識で)シンクロし、共有される」


という私の仮説の検証過程でもある。


もっと、平たい言い方をすれば、一見関係なさそうな「園子温」と「村上龍」と「甲本ヒロト


さらには「水道橋博士」の意外な共通点とは何か?という謎が解けたということである。


今回はまとめきれていないが、記録することを優先し、日記形式で取り急ぎアップする。


以下は、日記であるが、大事な日記である。


今日は、2014年2月22日である。


シネマヴェーラ渋谷」という東京・渋谷の円山町にある映画館に行った。


渋谷の円山町といえば、雑然とした街「渋谷」の中でも、最も猥雑な場所、


平たくいえば、ラブホテル街のことであり、


そのラブホテル街のド真ん中に、目指す映画館はあった。


いろいろな意味で、その映画館周辺の風景は、私にとって懐かしい場所でもあり、


様々な思いが込み上げてきたのも事実だが、今日はその話はしない。


そこで2本の映画を見た。2本とも「園子温」監督の映画である。


1つは「桂子ですけど」(1997年2月8日劇場公開)


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監督: 園子温 - 出演者: 鈴木桂子, 内田栄一


※冒頭で、「(亡くなった実在するシナリオライター)内田栄一に捧ぐ」とある。


(以下、映画の内容)


ウエイトレスをしながら、東京都中野区大和町でひとりで暮らしている


21歳の鈴木桂子は、あと3週間で22歳の誕生日を迎えようとしている。


彼女の宝物は、すでに亡くなってしまった父親の遺骨(これが内田栄一だ)だった。


1日が24時間であり、確実に1日は終わり、明日がやって来ると改めて考えた桂子は、


21歳最後の3週間を着実に生きようとするのだった。


なんでもないことの連続だが、大切な毎日、毎時間、毎分、毎秒。


そこに息づいている自分を、全部記憶したいと彼女は思っている。


月、火、水、木、金、土、日、そしてまた月曜日がやってきた。


やがて、桂子はもうすぐ22歳の誕生日を迎えようとしている。...


「男の花道」で1986年PFFグランプリを受賞した園子温が、若い女の子の日常を静かに描く。


これまでも“時間”というテーマに取り組んできた園が、


1時間1分1秒という上映時間の中で、斬新なアプローチによる独特の演出を見せている。


(映画の内容ここまで)


冒頭で、「内田栄一に捧ぐ」とあるだけあって、個人的な映画だった、という印象。


園子温と内田栄一の関係を調べてみないとなんとも言えないのだが、


園子温の中で生まれた、今は亡き内田栄一に、どうしても伝えたいこと、あるいは「決意」を


初期衝動に導かれるまま、描き切った作品という印象。これ以上とやかく何か言うのは「野暮」。


ちなみに、ここでも一種の偶然に近い「シンクロニシティ」を感じた。


この映画の主人公「桂子」とほとんど同じ行動を取っている、


ある有名な日本人女性がこの世に存在していることに気づいたのだ。


それが誰なのか?を説明するには、この映画を見て何を感じたか?という前置きが必要だ。


映画を見た一般人の100人中99人が、桂子に感情移入できない


(つまり、何やってるんだろうこの子は?と思う)と思われる(園子温ファンは除く)のだが、


100人中1人ぐらいは桂子に感情移入どころか、


桂子を見て「あっこれ私だ!何で私のこと知ってるの?」と思う人がいるのではないか?


その違いは、その人の人生に「切実さ」があるか?ないか?それだけである。


(別に「切実さ」がある=いい人生、「切実さ」がない=ダメな人生、と言っているわけではない。


 ただ、事実として、「切実さ」がある人生を送っている人と、「切実さ」がない人生を送っている


 2通りの人がいる、と言っているだけである。誤解のないようにお願いします。)


切実に人生を生きている人は、桂子のやっていることに理解を示すだろう。


ちなみに、この映画は20世紀に作られた作品であるが、


21世紀になってから、まるで「桂子」そのもののように人生を歩んでいる人物がいる。


ズバリいう。それは「中川翔子」という日本のアイドルである。


彼女の生き様は、まさに、この映画の「桂子」そのものだ。


「大切な毎日、毎時間、毎分、毎秒。


 そこに息づいている自分を、全部記憶したい」


この「切実な」「欲求(衝動)」を現実のものとすべく、


中川翔子は、日常で起きた、ありとあらゆることを


ブログに「生きた証(あかし)」として刻んでいる。


多い時は、1日で231回もブログを更新している。


やっていることは、まさに「桂子」そのものである。


ちなみに、どうでもいいシンクロだが、そんな中川翔子の母親の名前は


なんと!「桂子」なのである。なんたる偶然であろうか。こわいこわい。


シンクロ現象は、どうやら一度発生すると、連鎖を起こすようである。


しょこたんブログ


http://ameblo.jp/nakagawa-shoko/


しょこたんぶろぐ貪欲デイズ

しょこたんぶろぐ貪欲デイズ


もちろん、中川翔子は、この映画「桂子ですけど」を知らないだろう。


しかし、それでも、世の中で本当に価値のある情報はシンクロし、共有される。


これこそが、私のいう、人と人を、(私が勝手に)数珠つなぎした(つなぎ合わせた)時に


発生する「ドミナント・モーション(主題反復)=同じ意味のことを違う形で言っている」である。


話を元に戻そう。これは、日記だったはずだ。



私は、園子温の映画を見にいった。


一本目の映画は「桂子ですけど」だった。


二本目の映画は、あの満島ひかりが主演したのにもかかわらず、なんと公開すらされなかったという、


まさに幻の未公開作「Make the Last Wish」(2008年製作)。



監督:園子温 出演:満島ひかり安藤サクラ倉本美津留


内容的には、実際に行われた「アブリル・ラビーン妹オーディション」に、


愛のむきだし」出演直後の満島が参加する様子を、


ドキュメンタリーとフィクションを織り交ぜ撮影した。といったものなのだが、


なぜ、未公開作品になってしまったのかというと…


(映画.com http://eiga.com/news/20110122/3/ より引用開始)


ウェブの動画サイト配信用に企画された同作。


あるプロデューサーが「アブリル・ラビーン原作のコミックの権利を持っている」と


放送作家倉本美津留に持ちかけ、倉本が園監督に演出を打診。


実際に行われた「アブリル・ラビーン妹オーディション」に、


愛のむきだし」出演直後の満島が参加する様子を、


ドキュメンタリーとフィクションを織り交ぜ撮影した。


しかし、ふたを開けてみると、企画を持ち込んだ“プロデューサー”が


ビーン側と権利契約を結んでいないことが判明。


「Make the Last Wish」は完成を待たずに、お蔵入りの憂き目を見た。


園監督は「基本的に未完成な状態。オーディション自体は演出なしの“ガチ”勝負だった。」


「仮に満島が優勝したら、(本当に)ラビーンの東京ドーム公演(2008年)の前座を務める予定だった」


といい「満島にとっては(以前在籍していた)Folder5以来のステージ歌唱になるはずだった。


それはそれで面白かったかも」(と語っている)。


(引用ここまで)


まあ、映画の内容はさておき(もちろん満島ひかりは良かったけど)、


個人的に気になったのは、「倉本美津留」という人物。


今は、丸くなっちゃったけど、かつて「笑いの天才」の名を欲しいままにしていた


松本人志ダウンタウン)の周辺にいる(いた?)人物なんだよね。


ダウンタウンのごっつええ感じ」の構成作家のひとりで、


「一人ごっつ」では大仏として声の出演もしていた、知る人ぞ知る人物。


ダウンタウンDX」のトスポくんの声をやっている人でもある。


おぼろげな記憶では「自分はジョン・レノンの生まれ変わりだ!」って公言してはばからない、


放送作家の人だったと思うけど、ホームページ残ってないかな…と探してみると…


あった、ありましたよ。バージョンは変わっちゃってるけど…


倉本美津留 OFFICIAL SITE


「なぜオレがビートルズの続きをやることになっていると感じているのか?その理由」


http://www.ninpop.com/ninpop/mitsuru/prf/beatles.html


どうやら、倉本美津留は「ジョン・レノンの生まれ変わり」ではなく、


ビートルズの続きをやることになっている人」らしい。


流し読みしたところ、普通の人が読んだら、ただのキチ●イって思われそうだけど、


個人的には、「この人の気持ち、とてもよくわかるわ〜」という感じ。


そして、この「倉本美津留ビートルズの続きをやることになっているんだ論」と


今回の主題は、きれいにリンクする。


ようやく、ここからが本題である。


今日は、(こんなに書いておいてなんだが)上の二本の映画はどうでもよかったのである。


二本の映画の上映が終わったあと、2人の人物が登場し、トークショーが始まった。


2人の人物とは、園子温監督と水道橋博士である。


今日、わざわざ、こんなラブホテル街のド真ん中まで足を運んだ目的は、このトークショーだった。


しかし、トークショーとは名ばかりで、園子温監督は酔っぱらっており(というよりも、この人が


シラフな瞬間などあるのだろうか?)これ以上トークを進めるのは困難だと判断した博士が、


トークショーはまだ序盤だったにも関わらず、足早に一つのFILM(映像)を流し始めた。


その映像とは「園子温が芸人になったその瞬間までを追いかけたドキュメンタリーFILM」である。


(会場にいた人ではなく、これを今読んでいる人の)大半が「ぽか〜ん。」であろう。


何を言っているのかわからないだろう。「え?園子温って映画監督やってる人だよね?」


「芸人になったってどういうこと?」「意味わからないんですけど…」という声が聞こえてきそうだ。


え〜と、すごいざっくり言うと、2013年に園子温監督が「もう映画監督飽きた。俺芸人になるわ」


って言った(園子温の『芸人宣言』)。で、それを受けて、水道橋博士(本名:小野)と園子温の2人が


ジョン・レノンの息子であるショーン・レノン⇒小野・ヨーコの息子だから小野ショーンでもある


 に引っ掛けて)「小野しおん」というお笑いコンビを結成し、


2013年4月30日に『ザ・水道橋in座・高円寺vol.1〜園子温芸人デビュー』という


お笑いのライブをやることになった。で、映画監督としては一流の仲間入りを果たしたが、


芸人としては、当然駆け出しのペーペーである、園子温監督が舞台デビューを果たすまでの


リアルなドキドキ感を追っかけたドキュメンタリー映像が流れたのである。


結局、トークショーはほとんど行われず、このVTRの終了とともにトークショーは終わりを


告げたのであるが、そのVTRの中で、私は「はっ!」と気づかされたことがあったのである。


それは、園子温監督がいう「非道に生きる」とは、そういう意味だったのか!という発見である。


VTR中に出てきた「非道に生きる」という意味の説明をそのまま引用したいのだが、


インターネット上には見当たらない。(でも本が出てる。買えってことか?)


非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)

非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)


しょうがないから、雰囲気だけでも自力で説明を試みる。


非道に生きる」という言葉の響きからは、


「道にそむく」=「極道的に」=「ワルに」=「人の道を外れて」「生きる」という


ような印象を抱かせるが、そうではない。「グレることではない」。


そうではなくて「他人が敷いたレール(=道)だけは、俺は絶対に歩まないぞ!」という


決意宣言だったのだ。


この「非道に生きる」の意味を知った時に、私の頭の中でいろいろなものが氷解し、謎が解けたのだ。


なぜ私は園子温に興味を持っているのか? なぜ水道橋博士園子温にこんなに関心を抱くのか?


なぜ倉本美津留園子温に興味を持ち、映画「Make the Last Wish」の演出をお願いしたのか?


すべては、「他人が敷いたレール(=道)だけは、俺は絶対に歩まないぞ!」=「非道に生きる


という園子温監督の「姿勢・思想・生き方」に共鳴・共感しているからだったのだ!


と私は興奮しているのだが、理解してもらうには、ちょっと説明が必要かもしれない。


まずは「なぜ私は園子温に興味を持っているのか?」の説明である。


私はもともと村上龍(のような人)になりたかった人間である。


ちょっと長いが、「村上龍映画小説集」から引用する。


村上龍映画小説集 (講談社文庫)

村上龍映画小説集 (講談社文庫)

 

村上龍の「村上龍映画小説集  ワイルド・エンジェル」より引用開始)


「いい?本当は誰だって行くところなんかどこにもないわけじゃないの、


そんなことを考えずにすむような何かをあんたは捜さなきゃいけないわけでしょ?


行くところがあるっていったって、たいていの人は、それは用事があるだけなのよ、


そこへ行けと誰かに命令されてるだけなのよ、兵士から大統領までそれは同じだと思うわ、


(中略)


あんたに才能があるかどうかなんて知ったこっちゃないけど、


あんたは用事のない生き方をする人だな、と思ったのよ、


それをやってればどこにも行かなくて済むっていうものを見つけなさい、


それができなかったら、あんたは結局、


行きたくもないところへ行かなければならない羽目になるわけよ」


(引用ここまで)


これを読んだ、当時19歳だった私は、「用事のない生き方」をするべく、


「それをやってればどこにも行かなくて済む」ものを見つけるために生き続けてきた。


今でもそうだ。そして、この村上龍がいう「用事のない生き方」とは、園子温の「非道に生きる」と


表現(言い方)が違うだけで、意味は全く同じである。


この2つの表現が言っていることが同じだ!というのが、私にとっては大発見である。


人と人、つまり「村上龍」と「園子温」を数珠つなぎして、その結果、


ドミナント・モーション(主題反復)=同じ意味のことを違う形で言っている」ことを


発見する(体感する)。これはめちゃくちゃ「高まる(興奮する・ワクワクする)」ことなのである。


だから、私は、園子温監督に興味を持ったのである。あ〜すっきりした。


この「快感」はきっと「理系の人が難しい数式をこねくり回したあげく、証明にたどりついた時の


快感に似ている」と私は推測する。


続いて、なぜ水道橋博士園子温にこんなに関心を抱くのか?の説明である。


水道橋博士には、甲本ヒロトというロック歌手の同級生がいる。


そんな博士が甲本ヒロトに感銘を受けた一節がある。


私もすごい好きなくだりなのだが、一言でいえば「飽食の果ての飢餓」である。


(博士の悪童日記 http://blog.livedoor.jp/s_hakase/archives/110694.html より引用開始)


(以下は、インタビューに答える甲本ヒロトの発言)


人生には意味ないよ。いやぁ、ほんとそうだよ。だってヒマつぶしじゃん。


ヒマなんだよ、みんな人生80年もいらないんだよ。


3日もあれば終わるんだ、やることなんて。


パッと起きて、『ああー、世の中かー・・・死のっ』みたいな(笑)


十分なんだよ、それで。何にもやらなくたっていいんだ、人間。


それなのにさ、80年ぐらいも生きちゃうんだよ。


メッチャヒマだよね。ヒマつぶししなきゃならんのよ。


そのヒマつぶしとして、月に行ってみたり、


円周率割り出してみたり、コンピューター作ってみたり、


ビル建ててみたり、大金持ちになってみたり、


大統領になってみたりするんじゃん。


何か全部、ヒマつぶしでしょ。


意味なんかないんだ、楽しければいいんだ。結局のところ、


何が目的なんだよっていうと、


最後の答えは、『お前は正しい』って言って欲しいだけなんだよ。



僕はいろいろなところで人に聞かれるんだよ。


『楽しきゃいいのか?』って。


いいんだよ。そのかわり、楽じゃないんだよって。


漢字で書いたら同じじゃんって。


でもね、楽しいと楽は違うよ。楽しいと楽は対極だよ。


楽しいことがしたいんだったら、楽はしちゃダメだと思うよ。


楽しいことがやりたいと思った時点で、楽な道からはそれるんだよ。


その人は。だって、おおこれもやりたいって、


楽しいことを実現するためにはもう忙しいってなるじゃん。


寝てる暇なんかねーよって。


楽しようと思ったら、楽しいことはあきらめなきゃだめだね。


ただ、生活は楽なほうが絶対いいと思うよ。


でも人生は楽しいほうがいいじゃん。



余裕がなきゃ駄目だよ。


だから、僕は、飽食の果ての飢餓だと思う。


飽食の果ての飢餓が、ロックンロールにおけるハングリーってやつでしょ、


お腹が空いたハングリーとは違うぜ。


ハングリー精神っていうのと、貧乏は関係ないよ。


貧乏な人がハングリー精神っていったら駄目だよ。


まず金稼いでから言えよ。


うん、ハングリー精神っていうのは、


満ち足りてる人の中に芽生えるものだよ。


着るものもある、家もある、ギターだって買える。


だけどさ、足りねぇんだよ、


これが、っていうのがロックンロールじゃん。


うん、貧乏人にはロックンロールはできないよ。


(引用ここまで)


この甲本ヒロトがいう「飽食の果ての飢餓」あるいは


「楽しい人生を送るために楽(らく)をするのをやめる」


っていうのは、これまた園子温の「非道に生きる」と


表現(言い方)は違うけど、同じ意味(ドミナント・モーション=主題反復してる)んだよね。


だから、水道橋博士園子温にこんなに関心を抱くんだと思う。


もちろん博士自身が「世の中とプロレス」する人が好きで、


園子温ほど「世の中とプロレス」してる映画監督はいないから、とも言えるんだけど…。


この「世の中とプロレス」するっていうのも、ある意味「非道に生きる」ってことだしね。


そして、「倉本美津留ビートルズの続きをやることになっているんだ論」っていうのも、


園子温の「非道に生きる」と表現(言い方)は違うけど、


同じ意味(ドミナント・モーション=主題反復してる)。だから共鳴するわけ。


ということで、今日はただただ、「非道に生きる」の意味を知った時に、


私の頭の中でいろいろなものが氷解し、謎が解けた、その瞬間を記録しておきたかった、


ということに尽きる。


いや〜、今日ほど、ブログのタイトルを「自分という現象の連続」にしておいて


良かったと思った日はない。


もし、最後までお読みになられた方がいらっしゃいましたら、


駄文におつきあいいただき、ありがとうございました。


本日はここまで。

靖国参拝は、「第二次世界大戦後の世界秩序に対する挑戦状」以外の何者でもない


※この文章を最初から読みたい方は、以下をクリック
 「首相の靖国参拝」は「日本国民は戦争がしたいと思ってます」宣言と同じだ、という仮説
 http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20140211


まず、誤解を避けるために、私の立場を簡単に述べておきたい。


私は自分のことを「愛国者」の一人だと思っている。


靖国神社に祭られている、戦争で亡くなられた、名もなき英霊たちの魂が浮かばれてほしいと


心の底から願っている。だから感情論としては、安倍首相の靖国参拝を支持したい気持ちもある。


それでも、「愛国者」の一人として、自分を「愛国者」だと思っている同胞、仲間たちたちに対して、


「本当の愛国者が取るべき行動は何か?」「何が本当の日本の国益なのか?」


靖国神社の英霊たちが本当に望んでいることは何か?」


を問いかけたいと思っているだけである。


話を元に戻す。靖国参拝の一番の問題点は、


靖国参拝は、「第二次世界大戦後の世界秩序に対する挑戦状」以外の何者でもない、


とどうやっても外国からは思われてしまうということである。


注)この「外国」というのが「韓国」「中国」だけではない、というのが最大の問題である。


  むしろ、われわれが手を取り合い、仲間として歩んでいくべき「アメリカ」「イギリス」


  「フランス」「ロシア」からも、上記のように思われてしまうことが問題なのである。


では、一体、なぜ外国から、そんなふうに誤解されてしまうのか?


それは、日本人が「The United Nation」=×「国連」○「連合諸国」がどういうものなのか?


を理解できていない、というのが最初のポイントである。


今の世界秩序(ワールド・オーダー)は、第二次世界大戦戦勝国(=連合国側)が作ったものであり、


(起きてほしくないが)第三次世界大戦が起きて、新たな戦勝国が生まれるまでは、


第二次世界大戦戦勝国(=連合国側)が正義、敗戦国(=ドイツ、日本、イタリア)が絶体悪である


という世界観を土台にして、世界秩序が作られ、現在も世界の安定を保っているという現実がある。


その現在の安定を保つための場が、第二次大戦の戦勝国、つまり「アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国」の


5大国が強い決定権(&その裏返しとしての拒否権)を持つ「国連(という名の戦勝国連合=連合諸国=The United Nation)の


安全保障理事会」である。「国連」などと訳すから、純朴な日本人は「国際社会の正義を実現する場だ」などと勝手に国連に幻想を抱くが、


実態は何のことはない、「(日本(の戦犯者)やドイツのナチスを悪とみなす戦勝国連合が)正義を実現する場」にすぎない。


核不拡散条約というのは、「世界から核兵器をなくしましょう」などではなく、


安全保障理事会の5大国(=現在の世界秩序を守っている正義の国)以外の国が核兵器を持つことは許しません!」という


宣言にすぎないのであり、安保理の5大国以外の国が核兵器を持とうとしたり、領土を拡張しようとしたりして、


現在の世界秩序を乱すような行動をとろうとすると、国際的強制執行=軍事制裁が「正義」の名のもとに行われるのである。


かつての朝鮮戦争の国連軍とか、湾岸戦争多国籍軍などが、これにあたる。


そして、日本が今置かれている状況が外国からどうみなされているかというと、


かつて、第二次世界大戦で敗北した「悪の大国」日本は、


戦後のサンフランシスコ平和条約を批准した際に、


・人道に対する罪


・平和を犯した罪


を認め、同時に「戦犯者」たちの責任=罪を認めた上で、


国際社会(現在の第二次世界大戦戦勝国が作り上げた世界秩序)に入れてもらった。


それ以降は、平和憲法を掲げ、現在の(戦勝国が作った)世界秩序を肯定し、頑張るのは経済だけにします。


という宣言のもとで発展してきたからこそ、経済摩擦などはありつつも、許されてきたという経緯がある。


ところが!である。そんな「現在の(戦勝国が作った)世界秩序を肯定します」と言っていたはずの日本が急に


「今の世界秩序は、日本が虐げられている」「そんなものは認められない」


「われわれは誇りを持って戦後レジームを解体する」などと言い出したから、世界は驚いているのである。


かつて、その「罪」=「責任」を世界に向かって認めたはずの存在であるA級戦犯が祭られている靖国神社


日本の首相が参拝するということは、無自覚なわれわれ日本国民や、さらには安倍首相自身も気づいていないかもしれないが、


現在の世界秩序を作っている戦勝国連合=国連安保理から見れば、


サンフランシスコ条約で一度は認めたはずの「戦争の罪を日本はやっぱり認めない!」


第二次世界大戦後の世界秩序が間違っているんだ!」「間違った現状を正すべく日本はこれから毅然とした態度をとる」


つまり、「現在の(戦勝国が作った)世界秩序に対する挑戦状」を叩きつけられているように感じられてしまうのである。


言い換えれば「日本国民の代表である日本の首相が靖国参拝をすると、1945年以降に国連(UN=連合諸国)が作り上げた


世界秩序を日本(国民)は転覆しよう思っていると外国からは無条件で解釈されてしまう」ということである。


だから「靖国参拝問題」は「内政干渉」などでは決してすまされない。


世界の安全保障を揺るがす大問題だと外国からはみなされるからである。


現在の世界秩序(=戦勝国連合)にとっては、「ドイツのナチス」と「日本の戦犯者」を肯定する行為は、


なにがなんでも絶対に、決して許せない、看過できない問題なのである。


なぜなら、現在の世界秩序は、「ドイツのナチス」と「日本の戦犯者」を「絶対悪」と定めたうえで成り立っている秩序だからである。


「ドイツのナチス」と「日本の戦犯者」は、ドラクエやFFなどのRPGロールプレイングゲーム)のラスボスと同じ、


絶体悪だ、という世界観の世界をわれわれは生きているんだ、ということを決して忘れてはならない。


せっかくラスボスを倒して、世界に平和が戻ったと思っていたのに、ラスボスを再び崇拝する集団が現れた、


ということを勇者(主人公)が知ったらどうなるであろうか?再び「悪の集団」は成敗されてしまうのである。


では、ラスボス側が、正義になれる日は来ないのか?そんな絶望から来るうめきが日本の靖国参拝を応援する声の正体である。


ゲームでは絶対にそんな日はやってこない。しかし、現実には、日本が「正義」になる可能性はゼロではない。


今から怖いことを書きます。


日本が「正義」になる方法、それは、日本が第三次世界大戦を起こし、戦争に勝って、戦勝国となった上で、


現状とは違う、新たな「世界秩序=日本も戦勝国側として安保理に入る状況」を作り上げることです。


つまり「首相の靖国参拝」や「戦後レジームからの脱却」が外国に向けて放つメッセージは、


「日本は今の世界秩序が気に入らない!」「この虐げられた状況を打破するためには、かつて間違って戦犯と名指しされた


人たちの名誉を回復するためにも、もう一回戦争してやるぞ!」と宣言しているのと同じだと外国人の目には映るのです。


では、なぜこれが「いけない」と愛国者の一人として私は感じるのか?


それは、上記のように外国から思われるのが、日本の「国益」にとって「損」でしかないと思うからである。


このままでは、日本は「孤立」してしまう。


戦略的には、現在の世界秩序を作っている中国以外の戦勝国連合(アメリカ・イギリス・フランス・ロシア)を味方につけて、


中国を「孤立」させなければ、日本が生き残る道はない、と思うからである。


そして「日本の孤立」こそ「負ける戦争」そして「破滅」への道である。


かつて、日本は、「満州を返還せよ!」と当時の国際連盟から全会一致で勧告され、


腹を立てて、国際連盟を脱退した頃から「破滅への道=孤立」が始まりました。


さらには、当時の国際世論を無視して、南部仏印進駐をしたことにより、


ABCD包囲網がしかれ、文字通り「孤立」し、追い詰められ、


最終的にはアメリカとの戦争に突入させられていきました。


「孤立」した結果、多くの人たちの命が戦争で失われたのです。


実は、第二次世界大戦前の日本国民は、ほとんどの人が、


当時世界一の国だったアメリカと戦争するなんて夢にも思ってなかったといいます。


それなのに、気づいたら、アメリカとの戦争が始まっていた。


その原因は、「世界の趨勢(=現在の世界秩序)に逆らってはいけない」という


世界を貫く法則を日本人が島国根性で理解していなかったからです。


これは、今の日本の状況と全く同じです。


靖国神社の参拝ぐらい許してくれたっていいじゃねえかよ」という甘えた考えは、


日本の外では全く相手にされません。


だって現在の世界秩序に対する挑戦宣言を意味するのですから、許されるわけがないのです。


もっと怖いことを書きます。


ということは、もし、この先、日本が現在の世界秩序に敵対的な態度をとった状態のまま、


つまりは「靖国参拝=過去のA級戦犯を崇めること」は正しいと主張して譲らない状態のまま、


尖閣諸島に中国が攻め込んでくるなどして、中国と日本の軍事衝突が起こった場合、


アメリカは何らかの理由をつけて、(現在の世界秩序にはむかう)日本を助けようとせず、


静観しようとするのではないでしょうか?そして、万が一、そんな事態に陥った場合、


自衛隊が応戦するも、さすがに日本だけでは対抗しきれず、


その結果、尖閣諸島は中国に占領されてしまうことでしょう。


これはひどい!」「中国の許されない蛮行だ!なんとかして下さい!」と日本が国連(=UN=連合諸国)に


陳情するものの、占領後に(安全保障理事国の一つである)中国が尖閣は元々自国の領土だと主張し続け、


仲裁に入った国連安保理の5大国から、もし、再び「日本こそが悪だ」と判定され、


尖閣諸島は中国領だ」と安保理が決めたから従え!と言われたら日本はどう行動するだろうか?


怒って国連を脱退してしまうのではないか?これでは1933年の国際連盟脱退の時と全く同じ流れである。


そうしたら第二次世界大戦に突入した時の二の舞になってしまうのではないか?


というのが、首相が靖国参拝を世界に向けて肯定し続ける以上、現在起こりうる最悪のシナリオである。


そんなバカな!日米安保条約があるからアメリカが守ってくれるはずだろ…。


本当にそう思えますか?靖国参拝をすることは現在の(戦勝国が作った)世界秩序への挑戦状なのです。


アメリカは、挑戦状を叩きつけた日本を、出来の悪い子どもを持った親のように、やれやれ、といいながら


助けてくれるのでしょうか?


バイデン副大統領は、靖国参拝を受けて、この件に関してなんと言っているか?


アメリカは尖閣問題には関与しない。と言っています。


これは、軍事衝突が起きても直接は日本を助けない。


助けるとしたら、軍事衝突が尖閣よりも広がりそうになった時に、


仲裁役だったらやってあげよう、という意味ではないでしょうか? おそらく在日米軍は動きません。


本当に「首相が靖国参拝を肯定する」状況のままで日本はアメリカに守ってもらえるのでしょうか?


世界の趨勢(=現在の世界秩序)にはむかって敵に回すといいことは一つもないのです。


そうではなくて、「中国こそ、現在の世界秩序を乱す存在だ」と主張して、残りの安保理大国4か国を


日本の味方に引き入れておかないと、上記のシナリオは悪夢として現実のものになってしまいます。


そのために日本が出来ることは、本音としてはいやでも、「靖国参拝は間違っていた」と訂正し、


これ以降、二度と「日本の首相になった者は靖国参拝をしない」というルールを守ることです。


愛国者であればあるほど、「首相の靖国神社参拝」が本当に「国益」にかなう行為なのか?を


自問自答すべき時が来ているのではないのでしょうか?


第二次世界大戦の経験者が年々亡くなられていき、どんどん当時の様子を知っている人が


日本から減っていっているのが現状です。


戦争経験者の記憶が世の中から失われつつある今、


日本は再び「孤立→負ける戦争」という同じ間違いを繰り返すのでしょうか?


靖国神社に祭られている(戦犯以外の)英霊たちは、そんなことを望んでいるのでしょうか?


本当の愛国者ならば、首相の靖国参拝を絶対にやめさせるべきだし、


それが日本の真の「国益」なのではないでしょうか?


また、それでも「首相の靖国参拝を支持する」という方には、


あなたは世界を敵に回して戦争をする覚悟があった上でそう言っているのか?


今、日本が第三次世界大戦を起こして、世界の大半を敵に回して


日本が勝てると本気で思っているのですか?


そして、この先自分が戦争に行ったり、日本が戦場になったりする覚悟は出来ているのですか?


と問いかけたい。勇ましいことを口でいうのは簡単である。


本当にそう思っているのならば、自衛隊に入ってから主張していただきたい。


自分は戦争したくない、戦場に行きたくないという気持ちが少しでもあるならば、


絶体に首相の靖国参拝を認める態度、発言をしてはならないと私は思う。


本日はここまで。


興味がある方は、下記の関連エントリーもお読みください
・「ネトウヨネット右翼)は金持ちじゃないと損するだけ」という仮説
  http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20130323

「首相の靖国参拝」は「日本国民は戦争がしたいと思ってます」宣言と同じ、という仮説


まず質問です。「(この文章を読んでいる)あなたは、


自分が戦場に行って戦争をしたいと思っていますか?」


おそらく、ほとんどの人が「NO」つまり「いいえ」と答えるだろう。


そう、われわれ日本人は、ほとんど全員が「戦争はしたくない」と思っているはずです。


では、「日本の首相が靖国参拝をした」というニュースを見た後の外国人に


「日本人は戦争をしたいと思っていると思いますか?」と質問をしたら、どう答えるだろうか?


恐ろしいことに、外国人のほとんど全ての人が「YES」つまり「日本人は戦争をしたがっている」と


答えるだろう。「そんなバカな…。」「そんなはずはない…」そう思うだろうか?


しかし、現実は恐ろしいことに、「首相が靖国参拝」をするだけで


外国人からは「日本人は戦争をしたがっている」と思われてしまうのである。


なぜ、そんなことになってしまうのだろうか?日本国民としては、なかなか理解しがたい話である。


それでも実際問題、われわれ日本人は、ほとんど誰も戦争を望んでいないにもかかわらず、


首相が靖国神社に参拝するだけで、外国からは、そう思われてしまうのである。


なぜなら、「日本国民が選んだ(信任した)代表=(安倍)首相」なので、


首相の行動は個人の行為などではなく、日本国民の総意だと、世界ではみなされてしまうのである。


これは、つまり「われわれ日本人が戦争をしたい!戦争に行きたい!」と心から願っている場合を除いては、


「日本の首相は靖国神社に参拝してはいけない」ということを意味している。


「首相の靖国神社参拝」は、それぐらい世界に衝撃を与える出来事であり、


現在の世界秩序が絶対に見逃すことが出来ない行為であり、


やがて日本の「孤立」を生み、国際社会から「制裁」を受ける原因になる行為だということを


われわれは強く意識しなければならない。


なぜ、こんな恐ろしいギャップが生まれ、日本は世界から誤解されてしまうのか?


その理由を今から説明したいと思う。

なぜ「選挙」の投票時に「理想」と「現実」を見分けなければならないのか?


さきほど軽く触れた、日本の「政治」が一行に機能しない、「悲劇」の「原因」。


それは、日本人のほぼ全員が「democracy(デモクラシー)」という言葉を誤解している


ということに原因がある。


まず、これは「民主主義」という(一見ありがたく感じそうな)「思想」(=〜イズム ism)ではない。


本当は「代議制民主政体」という「本当は国民全員で集まって物事を決めて実行した方がいいけど、


現実的には、1億2600万人が一か所に集まって物事を決めるのは難しい(非現実的だ)から、


みんなで集まる代わりに、自分と同じ意見の人たちをその話し合いの場に送り込んで、


代わりに意見を言ってきてもらって、ものごとを決めて実行してもらおう」という


「システム」のことを本当は「democracy(デモクラシー)」と呼ぶのである。


そして、「democracy(デモクラシー)」とは、「話し合い」のことではない。


「決めて実行すること」である。と、あえて、日本では言い切った方がいいと思われる。


「何のために話し合うのか?」それは「物事を決めて実行するため」だからである。


だから、「自分が選挙に出た」と仮定して、「意見としてはいえるけど実行不可能な絵空事」を


選挙の候補者に託しても「全くの無駄なこと」になってしまうのである。


なぜなら、そんな「実行不可能な絵空事(=理想)」は決して採用されず当然、実行されないからである。


そうではなくて、「自分が選挙に出た」と仮定して、「意見を言って話し合えば、


修正は生じるかもしれないが実行可能な」政策を持っている候補者に投票しなければ、


「democracy(デモクラシー)」という「システム」は機能しなくなってしまうのである。


日本の「不幸」は、「理想」という「意見はいえるけど実行不可能な絵空事」を掲げる


政治家ばかりが選ばれて、国会という話し合いの場に送り込まれるのだが、


結局それは「絵空事」だから無理です、実行できません。となってしまって、


「この政治家たちは本当に頭の中がお花畑だな〜。現実はこうなっているんですよ。


 こうじゃないと現実は動いていかないんですよ。」


と政策の実行部隊である「官僚」から、「実現可能な政策」を教えられ、たしなめられ、


うなだれながら、「政治家」が「自分の考え(政策)」を「自分で変えた(変更した)」フリを


して、本当は「官僚」からこっそり教えてもらった「選挙時の公約からはほど遠い」


「実現可能な政策」を実行している、という抗いがたい現実があるのである。


「だから、日本の政治家はだめなんだよな〜」と思ったあなた!


それが、日本人のダメなところですよ。


「日本の政治家」がダメなのは、それを選んでいる「国民」がダメだからです!


とは、いっても、やむをえない事情があったのです。


「democracy(デモクラシー)」とは「選挙」に行くことだ、


「自分たちの『代わり』に『決めて』くれる人を選ぶことだ」と多くの日本人が勘違いしている。


これには、自分たちが不条理に、自分たちの「財産」をはく奪されたりして、


必要にせまられて、「時の権力者に勝手なことをさせるわけにはいかない!


そのためには自分たちのことは自分たちで決めなくては!」


と必要に迫られて「democracy(デモクラシー)」を血を流して勝ち取ったものではない


という、日本の歴史が関係しています。


本当は、「democracy(デモクラシー)」とは、


「選挙にいくこと」でも「代わりの人を選ぶ」ことでもなく、


「権力者に勝手なことをさせないため」


「自分が政治に『参加』して」「自分のことは自分で決めて実行する」ということなのです。


不条理に財産を奪われたりした、ヨーロッパやアメリカの人たちにとっては、


「democracy(デモクラシー)」は自分たちの毎日の生活を守る「死活問題」であり、


当然「自分にとって生きていくうえでとても大事な、血の通った生身のもの」であり、


日本のように決して「他人ごと」ではないのです。


それなのに、日本では、「democracy(デモクラシー)」が「民主主義」という、


まるで、ありがたい「思想」であるかのように「翻訳」され、かたちだけ「輸入」され、


しかも、『「○○主義」とか、そういう難しいことは(国民の皆さんは)良くわからないでしょうから、


みなさんはわからなくていいですよ〜。私たちがちゃんとうまくやりますから』と


実質の権力者で、政策を実行する「官僚」から「国民」はバカにされ、煙に巻かれ、


「国民」どころかその代表のはずの「政治家」まで「官僚」に無視され、たしなめられている


というのが、この国の実態であり、現実であると残念ながら言わざるを得ない。


だからこの国は「政治」が機能せず、いつまでたっても「官僚(=お上)」主導の国のままなのです。


「自分には、そういう難しい(政治の)ことは、よくわからないから、自分よりすごい(頭がいい)


 (いい人っぽい)(かっこいい)(有名な)人に、自分の代わりに(政治を)やってもらおう!」


というのが「選挙」ではないのです。


自分より「『すごい』人(=権力者)なんか、いない」いや、「いたとしても、いらない!」


「だから自分の(命・財産に関する)ことは、自分で決めさせてくれ!」というのが、


本当の「democracy(デモクラシー)」であり、「選挙」であり、「代議制民主政体」であり、


日本人が「民主主義」だと思っているものの本当の姿なのです。


このことが、国民にバレると面倒くさいし、自分たちの都合のいいように世の中を動かせなくなるから、


「官僚」と「学者」が連合して、「難しいことは考えなくて大丈夫です!ご安心ください!


代わりに私たちがちゃんと正しい方向に導きますから。だって難しいこと考えたり決めたりするの


面倒くさいですよね?すべては(国民の皆さんより優秀な)自分たち(官僚=お上)にお任せください!」


と、大きく騙されてきたのです。


でも、われわれ「国民」がこのことを「知り」、「政治」を機能させようと、


「意識」を変えて、選挙で投票すれば、この状況は余裕で変えられます!


だからこそ、われわれは、「即時原発0」とか耳障りがいい、


「良いことをいっている」と感じさせてくれるが、


その一方で、非現実的な「理想」ばかりを掲げる「政策」を掲げる「政治家」に


投票するのをやめなければなりません。


彼らを自分の代わりに国会に送り出してはならないのです。


なぜなら、その「理想」は「官僚」にはねかえされて、決して「実現」されませんから。


「democracy(デモクラシー)」とは「自分が政治に参加すること」です。


自分がその人の代わりに国会なり都議会なりに参加したと仮定した時に、


「実行できる」と思われることを、「政策」として掲げている人に投票するべきです。


だって、自分が出来ないことは、自分が選んだ政治家も絶対に実行できませんから。


自分が、国会に行った時、「原発を即ゼロにするには、電気代が毎月、今の倍どころか


3倍になるけど、それでもあなたは食べていけますか?」といわれたときに、


いや、自分はそれぐらい平気だ。自分以外の人も、それぐらい絶対平気だ。と


言い張って、そうなっても怒る人(国民)がいない、と確信をもっていえることでないと、


実際には「官僚」に押し戻され「政策」として採用されません。


多少歯切れは悪くても、「原発は減らしていくにこしたことはない」


でも「今すぐは無理だ」「その代わり代替エネルギーの開発にこれから力を入れる」


代替エネルギー」が開発できたら、「電気代が値上がりして国民が困ることがない範囲で、


それが補充できる「電力」をまかなえる分だけ、順次、原発を停止していく。」という


「これなら実現可能だろう」という趣旨のことを言っている人に投票するべきなのです。


そういう人を「国民」の側が選ばなければ、いつまでたっても


「日本の政治家はダメだ」のままであり、日本の悲劇は止まらないのである。


以上、選挙に投票する際の参考になれば幸いです。


本日はここまで。

選挙は誰に投票すればいいのか?論〜2014年の都知事選を前に〜


都知事選が近づいている。

(2014年1月23日22時16分 読売新聞 の記事
 http://www.yomiuri.co.jp/election/local/news/20140123-OYT1T01238.htm より引用開始)


■五輪・原発、論戦火ぶた…都知事選16氏の争い


次の「首都の顔」を決める東京都知事選挙が23日告示され、2020年夏季五輪パラリンピックや、


原発などエネルギーの課題、首都防災、「政治とカネ」の問題などを主要テーマに、論戦が始まった。


この日、立候補を届け出たのは16人。国内総生産(GDP)の2割を生み出し、


日本経済のけん引役を担う東京を誰に託すのか。選挙戦は17日間にわたり、2月9日に投開票される。



選挙戦は、前日本弁護士連合会長の宇都宮健児氏(67)、元航空幕僚長田母神俊雄氏(65)、


厚生労働相舛添要一氏(65)、元首相の細川護熙氏(76)の4人を中心に展開する見通し。



各候補は第一声をあげた後、都内各地を遊説した。宇都宮氏は脱原発や防災、福祉などのテーマを掲げ、


社会福祉を充実させる」と主張。田母神氏は「東京を災害に強く景観の美しい街にする」と訴えた。


舛添氏は新宿など繁華街で街頭演説を行い、「世界一安全で安心して暮らせる街にしたい」と呼びかけた。


細川氏は小泉元首相と渋谷、新宿などを回り、「原発ゼロを打ち出すことが大切だ」と語った。


(以下略。引用ここまで)


しかし、選挙のたびに、なんとなく投票しに行った方がいいとは


思っているのだけれど、ぶっちゃけ「誰に投票すればいいのか?わからない…」


そういう理由で、結局、選挙にいかずじまい…、


そういう人、特に若者も多いのではないだろうか?


投票率のグラフ、統計)


そこで今回、「選挙の時、誰に投票すればいいのか?」がわかるようになる


画期的な方法(目線、見分け方)を提唱したい。


それは、それぞれの選挙で候補者が言っている(訴えている)政策が、


・「いいこと」か「悪いこと」か?


・「賛成できる」か「絶対反対」なのか?


で判断しないということがまず前提となる。


いわば、一般常識的な投票基準を一回放棄してみるということだ。


では、何で判断するのか?


・「有名人」で知っている人だから投票するのか?⇒違う!


・「顔」がかっこいい、かわいいから投票するのか?⇒違う!


そうではなくて、「もし自分がその選挙に出て当選したら、


その政策を『実行できる』と思うかどうか?」を判断基準にするべきなのだ。


なんか難しいことを言われた気がするだろうか?


「俺、選挙出ないし…」「いや、いや、いや。私、そういう難しいことよく


わからないから、わかる人に代わりにやってもらうために選挙があるんじゃないの?」


と感じる人もいるかもしれない。


しかし、まさにそう感じることにこそ、日本の「政治」が一行に機能しない、


「悲劇」の「原因」が隠されているのだ!


その「意識」を変えることが出来れば、日本の政治はちゃんと機能するのである。


詳しくは、のちほど説明するが、そこを踏みとどまって、


「自分が選挙に出たつもりで」「その政策は実行可能かどうか?」


つまり、選挙で訴えられている「政策」が「理想」に過ぎないのか?


それとも「実行可能」な「現実」的なものなのか?


を冷静に判断し、「理想」を訴えている「発言」は全て無視して、


「現実」的な政策だけを見て、


・自分にとって(自分の家族にとって)利益があるかどうか?


・「賛成」出来るのか?「反対」なのか?


で候補者を選ぶべきなのだ。


大事なのは、「理想」を掲げている「政策」は全て無視する、ということである。


「理想」は世の中を動かさない。もし無理に動かしたとしても「悲劇」を生むだけだ。


「人類をみな平等にしよう」と「理想」をかかげ、人々を「熱狂」させた


マルクスの「社会主義(理想)」がどんな「悲劇」を生み出したのかを思い出していただきたい。


だから本当は、マスコミが、候補者の政策を「理想」と「現実」に分けて、


「理想」をバッサリと切り捨てて、「現実的に実行可能な政策はこれだけです」と


教えてくれれば、もっと選挙は投票しやすくなり、投票率は上がるはずなのだ。


でも、それは、見込めなさそうなので、誰か、毎回、選挙のたびに、専門家が


それぞれの「政策」を「実現可能性」という視点から、


「理想」と「現実」に分けてくれないものだろうか?


それをやりたいのですが、本業が忙しくて、自分では出来ないのです。


誰か、そういう「選挙政策の理想と現実を冷酷に仕分けするサイト」を作ってくれませんか?


この記事を引用していただければ、勝手に作っていただいて構いませんので!(笑)

映画『風立ちぬ』の仮説?〜宮崎駿こそ、真の愛国者だ、という仮説〜


映画「風立ちぬ」は宮崎駿のエゴイズムを(もちろんいい意味で)結集させた作品である。


変な話、もう「みんなに『共感』されなくてもいい」から自分の好きなものを、


そして、自分が「本当に伝えたいメッセージ」を込めた作品であるといえるだろう。


その一面は、映画評論家の町山智浩さんがすでに述べているように、


・主人公は「宮崎駿」本人の投影であり、「飛行機(戦争の道具)が好き」だけど「戦争はキライ」という


 「自分は矛盾を抱えながら歩んできた人間だ。でも、それでいいんだ。それが俺の生き様だ。」


 という、ある種「純文学的な」自己表現の映画であったこと。


・そして、実は、その矛盾を抱えているのは自分だけじゃない。


 すべての「クリエイター」と呼ぶにふさわしい人種は、


 
 そういう「不謹慎で」「妄想癖のある」「獰猛な(でも純粋な)」『魔物』を


 自分の中に飼っている人間であり、そういう人間じゃなければ、


「いいもの」なんか作れるわけがないだろ!という表明をしている映画でもある


という点からも、この映画が「共感」を捨て「本当に伝えたいメッセージ」を伝えるために


作られた映画であるということには異論がないと思われる。


町山智浩さんの映画『風立ちぬ』に関するコメントが読めるページはこちら!↓


http://miyearnzzlabo.com/archives/16031



だが、「ものを作る人間」が本当に「共感」を捨てられるか?といったら本当はそんなことは絶体にない。


「わかるやつだけにわかればいい!」と言いながら「作りあげたもの」の中にこそ、


「本当はみんなにわかってほしい」「つーか、これをわかる人になってくれ!」という


強い願いがこもっているものである。


そこで私が勝手に、宮崎駿がこの映画に込めた「わかってほしいメッセージ」を読み解いてみる。


それは、今を生きる(特に若い)日本人に向けた「強いメッセージ」である。


それは、老人になった(なってしまった)今の宮崎駿だからこそ出来ることであり、


まさに最後に伝えなければならなかったメッセージでもある。


それは、「どうやって日本は、一度は『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と世界から


呼ばれるまでの成長を遂げることが出来たのか?その原動力は何だったのか?


もしあなたが日本人だったらそれを今(この映画を観て)思い出してください!


もし日本人なのにそれを知らないならば、せめてそれを今(この映画を観て)知って下さい!」


という、今や「世界の三等国」へとまっしぐらに進む日本とそれをぼーっと眺めてるだけの日本人たちへの


強烈な「叱咤激励」の映画であるということである。


どういうことか?箇条書きにして説明すると…


・映画『風立ちぬ』を観て、「かつての日本がいかに貧しかったか?」を知れ!


・そして「海外(ドイツ)に留学した日本人がどれだけ『悔しい』思いをしたのか?」を知れ!


・でも「その『悔しい』という強い思いがあったからこそ、戦後の日本の技術者は奮闘し、


 この国は「ジャパン・アズ・ナンバー1」と呼ばれるまでになることが出来たのだ」ということを


 もう一度!もう一度!みんな思い出してくれよ!


という「愛国」のメッセージが、映画『風立ちぬ』のもう一つのメッセージとして


込められているのだと思います。


では、なぜ、わざわざ「宮崎駿」がそんなことを伝えなければならなかったのか?


そこには理由があるのです。


「戦前」の時代を知っている人間が、今急速にどんどん日本からいなくなっています。


それはつまり「戦前」の時代を生きていた人々が何を「感じて」いたのか?という「情報」が


日々、今の世の中から失われつつあるということを同時に意味しているのです。


歴史はいやおうなく繰り返されます。その原因の一つは、当時の人々が「何を「感じて」いたのか?」


という「情報」が、その当時の人々の「死」とともに忘れ去られていくというところにあります。


それは、「戦争があった」という「悪い記憶」だけでなく、


「戦争の裏で」「こんなふうに頑張っていた日本人がいたのだ」という「良い記憶」もまた


同時に日々喪失されていっていることを意味しているのです。


そして、その「良い記憶」の「原動力」になっていたのが「悔しさ」だった、という「情報」は、


宮崎駿が映画「風立ちぬ」を作らなければ、歴史という大きな海の藻屑となって消えていたことでしょう。


「今、再び貧しくなりつつある日本人の同胞たちよ!


 あの頃を思い出し、もう一度悔しがれ!悔しがってもう一度頑張れば、


 きっとまた世界を「あっ」といわせる立派な「日本」に戻れるはずだ!目を覚ませ!」という


 メッセージを伝えることで、宮崎駿は今を生きる若者たちを「叱咤激励」したかったのだと私は思います。

映画「風立ちぬ」感想・後編〜仮説2宮崎駿こそ“真の愛国者”仮説

年をまたいでしまったが、せっかく連休なので、書きかけだった記事の続きをアップする。


2013-08-20 映画「風立ちぬ」感想&3つの仮説
 映画「風立ちぬ」感想 〜はじめに〜
 仮説?「風立ちぬ」のユーミンの主題歌「ひこうき雲」は後付けだった、という仮説


http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20130820


の続きである。