宇多田ヒカルが「不幸から生まれるもの」について言及した


それにしても、なぜ今このタイミングでこんな仮説を検証しようと思ったかというと…
宇多田ヒカルさんがこんな発言をしていたからです。最後のつぶやきに注目!


(2010年12月15日&16日 utadahikaru 宇多田ヒカルtwitterでのつぶやきより引用開始)


宇多田ヒカル
「もしかしたら私、明日(2010年12月16日)から活動休止なのかも(笑)
 今日、最後の「世に出る」系の仕事を終えました。
 プロのヘアメークさんにキレイにしてもらうのも、
 スタイリストのアシさんと事務所のちえちゃんの前で着替えることも
 (変な下着着てって笑わせることも)もう当分ないんだな〜。」


別の人
「 ヒッキー、お疲れ様でした★ずっと昔に携帯を拾った者ですo(^-^)o
  これからのヒッキーに更なるhappyを!」


宇多田ヒカル
「あわわわ!!その節は大変お世話になりました!!本当にありがとうございました!
(*昔ケータイを外で落っことした時に拾って直接届けてくれた方です↑)」


別の人「シュワーッチってやってて落とした時?」


宇多田ヒカル
「そう!4、5年位前、一人で散歩してて高いとこからシュワーッチ!ってジャンプして
 降りた弾みにケータイを落としたの…そういえばMステでこの話、したんだっけ(笑)
 本当に良い人に拾ってもらえてヨカッタデス(´;ω;`)」 


宇多田ヒカル
「恵比寿のTSUTAYAの前で待ち合わせしてケータイ受け取ったんだった…懐かしいです。
 ULTRA BLUEというアルバムの製作中で内面的にすこく病んでた時だったなあ。
 今となっては自分で一番好きなアルバムかも! おやすみなさい (:D)┼─┤バタッ」

 
別の人
「本当に苦悩しているときにこそ、
 素晴らしい作品を捻り出せる、そういうアーティストに惹かれます。」


宇多田ヒカル
「むしろ苦悩してる時の方が作品は作り易いんじゃないかな。
 そういうのも良いけど、真価が問われるのは
 何もない時や周りに目を向ける余裕ができた時の作品かもね。」


(引用ここまで)


この発言(つぶやき)を聞いて、昔の自分が立てた2つの仮説を思い出したのだった。


だが、宇多田ヒカルさんの発言で、もう十分なのかもしれない。


彼女は「むしろ苦悩している時の方が作品は作りやすい」と


「不幸が生み出すもの」の有用性を認めながらも、


「真価が問われるのは何もない時や周りに目を向ける余裕ができた時の作品」だと言っており


「不幸」ではない時のクリエイティブこそ、クリエイターが越えなければならない壁であり、


そこに挑戦することこそ真のクリエイティブだと言っているのだと思う。


かつて紹介した、「真実の期間計算」という概念で言えば、


歴史的に(時代が変わっても)評価されるアーティストになるためには、基本的には


10年以上コンスタントに評価される作品を生み出し続けなければならない。


(※「真実の期間計算」については
   http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20091028/1292615480 を参照 
   参考のため過去の記事より引用開始)


「真実の期間計算」とは簡単に言えば、


ものごとのホントウ(真)の価値を決定するには、


少なくとも10年以上の期間をもって判断されなくてはならない、という考え方である。


(中略)


10年前に輝いていたとしても、その10年後までそれが続いていなければ、


真に価値があることだったとは結局言えなくなる。(歴史上は評価されなくなる)


もちろんほとんどの人が、たとえ瞬間風速的にでも、輝くことなんて出来やしないのだから、


一瞬でも輝くことが出来た人はそれだけでもスゴイことなのだが、


それが将来的に、さらには歴史的に評価されるためには「継続」というのが


何よりのキーワードになってくるのだと思う。


(引用ここまで)


仮に「不幸」が生んだ「良い作品」がヒットしたとしても、


「不幸」を原動力としている限りは、そのクオリティを維持するために


10年以上不幸で居続けなければならない。


これっていくらアーティストだからって相当つらいことだよなーと思う。


だからこそ、「不幸」以外の原動力を見つけられなければ、


そのアーティストは短命で終わってしまうということも言えるのではないだろうか?


そしてこの「短命」というのが比喩ではなく、


本当に命を落としてしまうアーティストも存在しているから怖いのだ。


これは、「天才」は常に「孤独」だというかつての私の仮説ともリンクしてくる。


(※「天才」は「孤独」だ論 については
  http://d.hatena.ne.jp/kj-create/20051222/1292616543 参照)


簡単に言うと、「天才」は理解されないからこそ、「天才」であり、


だからこそ、自分のことを誰も理解してくれない、という絶望的な感情(=つまり絶望的な孤独)と


常に向き合い続けなければならなくなるという仮説なのだが、


「不幸」を原動力にして表現を続けるアーティストが「天才」だった場合、


クオリティを維持するうえで「不幸」が生み出すものによりかかればよりかかるほど、


その「孤独」感、そしてそれに付随する「絶望感」が増し続けていくため、


そりゃあ、長続きしないよなーと納得してしまうのである。


尾崎豊という人はたぶん「不幸が生み出すもの」をフルに利用した「天才」であったがゆえに、


あのような悲劇的な最後を迎えてしまったように思うのだ。


(参考文献:「編集者という病」見城徹

編集者という病い

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編集者という病い (集英社文庫)

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ただし、アーティストの世界では、才能を惜しまれながら、早く亡くなった方が


結果的に「伝説」となり時を超えて「天才」だったと語り継がれることが多いという


皮肉な現実があるというのもまた事実である。


だが、クオリティを維持するために「不幸」に寄りかかるという壁を乗り越え、


生き続けることを選び、「幸せ」でありながら「良い作品」を生み出していく


そんな新しい「天才」のかたちを宇多田ヒカルという人が、


目指してくれているのであれば、僕も一ファンとして喜ばしいと思う。