1999年のカリスマ「Dragon Ashの降谷建志」の存在意義とは?
「Viva La Revolution」を歌っていた「Dragon Ashの降谷建志」は、
私と同じ1979年生まれだが、
2月生まれなので正確には私の1学年上なのだが、
同世代であることには違いない。
1999年当時の音楽業界をとりまく状況は、
「GLAY」、「L'Arc〜en〜Ciel(ラルク・アン・シエル)」などの
ビジュアル系バンドの人気が落ち着きをみせはじめ、
20歳前後の女性ディーバが大活躍する時代を迎えていた。
「浜崎あゆみ」「鈴木あみ」
「宇多田ヒカル」「MISIA」
さらには「椎名林檎」
自分と同じ世代の女性たちがもうすでに世の中に出て活躍している状況で、
なんとなく同世代の男性の中からは「この人」という存在がいなかった。
そこに見事な風穴を空けたのが「Dragon Ashの降谷建志」である。
彼こそは、間違いなく同世代の男性で最初にカリスマになった男である。
声を大にしていうが、もし「Dragon Ashの降谷建志」がいなかったら
こうはなっていなかったというような現象はたくさんあると思う。
日本において「HIP-HOP」をメジャーシーンに押し上げたのは、
間違いなく「Dragon Ashの降谷建志」である。
それまでも日本でラップの曲が売れることはあったが、
それこそ「DA・YO・NE」とかであり、ちょっとあれを
「HIP-HOP」と呼ぶのは気が引けてしまう。
「HIP-HOP」が、そして「日本語によるラップ」が
格好いいものだと日本の若者が幅広く受け入れることができたのは、
「Dragon Ashの降谷建志」の功績だと少なくとも私は思っている。
そして、「HIP-HOP」のアーティストが持っている「姿勢」から
影響を受けたと思われるが、
降谷建志がリリック(歌詞)で好んで使う、
「リスペクト」「コラボ」などの概念は、
少なくとも同世代の人間たちにはかなりの影響を与えたはずである。
「Dragon Ash」が「HIP-HOP」をメジャーシーンに押し上げたという
土壌があったからこそ、その後、
「LIP SLIME」「ケツメイシ」「KICK THE CAN CREW」なども
すんなりと爆発的なヒットを記録できたのではないだろうか?
最後に蛇足ではあるが、
日本の「HIP-HOP」は「アングラ」なままではいけないとかいいながら、
売れすぎた「Dragon Ash」を前にして、その足を引っ張るようなマネをして
「Dragon Ashの降谷建志」の長い低迷期を生み出した「Z」から始まる人に一言いいたい。
あなたが日本の「HIP-HOP」界のパイオニアであることは認めます。
「Dragon Ashの降谷建志」という存在もあなたがいなければ
ここまでの存在にならなかったかもしれない。
でも、少なくとも俺は、「Dragon Ashの降谷建志」がいなかったら
今でもあなたのことをきっと知らないですよ。
もうこれ以上、足を引っ張るのはやめて下さい。
本当に。どちらがより多くの人に支持されているかは、
昨年の12月にはっきりとわかったと思うし。
ラテン音楽と出会い、新たなミクスチャーのジャンルを開拓した
今の「Dragon Ash」は、もはや日本の「HIP-HOP」界にも
「Z」から始まる人にも、気兼ねなく思う存分音楽を楽しめる状況になった。
そんな日が来たことを本当に幸福に思う。
同じ世代として、微力ながら、
自分も「Dragon Ash」そして「降谷建志」と共に
楽しみながら時代を塗り替えて行けたらと思う。
☆上記の記事は歌詞の引用を削除した不完全版になります
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