世の中と「プロレス」する 〜PRIDE-GP 2005観戦記〜


(今回の連続)


一昨日、2005年8月28日(日)。場所は、さいたまスーパーアリーナ
なんでもあり(バーリ・トゥード)の総合格闘技の最高峰、
PRIDE-GP 2005 決勝戦」を観戦した。


(S席の1Fで入場口の近くまでは結構行けた。PRIDE(プライド)初観戦。
 7月に東京ドームの内野席から「ノア(NOAH)DESTINY 2005」を観戦した時、
 グラウンドレベルで選手を追いかける人たちを遠くから見ていたが、
 これを自分で経験することに。これぐらいの大イベントになると、
 入場シーンは結構凝っていて、これを間近で楽しめるのはわざわざ
 会場まで足を運んだ人間の特権であろう。オープニングで噴出した炎の
 熱さを文字通り肌で感じたときにはチケット代1万7000円(←高!)を
 出したかいがあったと自分に言い聞かせるいい材料だと思ったものだ。
 しかしながら、S席といえども正直、
 試合そのものはモニターで観戦せざるをえないのが実情。
 特にPRIDEは立ち技だけでなく寝技の攻防が多く、立っている時は
 なんとか目で追えても、寝技になるとそもそも見えなくなってしまう。
 大金を払って同じ会場にいながらモニターで見るのはやはり悔しい。
 そこで、次回はもし取れるものなら、なけなしの3万円をはたいて、
 RRS(ロイヤルリングサイド)で観戦してみようと決意した。
 どうせ大金を払って会場にいくならやはり肉眼で見てみたいよね。)


目玉はなんといっても「ミルコ対ヒョードル」の一戦。
正直、仕事を始めてからの約2年強の間、馬鹿みたいに仕事ばかりしていたため
ほとんどチェック出来ていなかった総合格闘技の世界。
ヒーローだった桜庭(あつこ、ではなく和志)がいつのまにか勝てなくなっていたり、
そのころあまり注目していなかったシウバの最強説が流れていたり、
いつのまにかボブ・サップの影が薄くなったりしていた総合格闘技であるが、
「ミルコ対ヒョードル」はそんなごぶさたな私でも十分知っていて魅力的なカードだった。


クロアチアの「ミルコ・クロコップ(MIRKO CROCOP)」はK−1時代からもちろん知っていて、
PRIDEに電撃移籍してからも、その活躍ぶりはなんとなく知っていた。
説明など不要だが、キレのあるミルコのハイキックは、かすっただけでも
場合によってはKOするぐらいの威力があり、観客を喜ばせる勝ち方をする。
言うまでもなく強いイメージ。


ここまで書いて息切れ。メモ程度に感じたこと・思いつくことを。


ヒョードルを知っていたのは、浅草キッドの「お笑い男の星座」を読んで強いという話だったから。


・肝心の試合は、終始ヒョードルがミルコを押していた印象。
立ち技ではミルコに分があるかと思っていた(実際ミルコの打撃は何度かヒョードルにヒットしており、
ヒョードルの顔面の流血のため、2度ほど試合は中断されている)
が、しかし常に前に出ながら打撃をしかけるヒョードルに押されて後ずさりするミルコというのが試合の一貫したイメージ。
特にミルコの第2ラウンド以降のスタミナ切れがひどかった。
(これは、ミルコが下、ヒョードルが上という攻防が何度も重なったのが原因と思われる。
ミルコはその体勢でもヒョードルに決定打を打たせなかったわけだから、逆によく粘ったともいえるのかもしれない。
しかし、ヒョードルの上からのプレッシャーはミルコの体力を奪うには十分機能したようである。)


・まーとにかく「ヒョードルは強い!」これ以上何も言う必要はない。
・そうなると、次は「ヒョードルを倒せるのは誰か」ということを考えるのが楽しいわけで・・・
・真っ先に思い描いたのはやはり「ヒクソン・グレイシー」。そう「400戦無敗の男」である。
・PRIDEのファンからすれば格闘技音痴と揶揄されそうだが、実現するかしないかをいったん忘れ、
 単純に思い描いて一番楽しい組み合わせは個人的には「ヒョードルVSヒクソン」である。
・大晦日の格闘技に参加するという噂があるヒクソンヒョードルとやってくれるのが一番嬉しい。
・現実的にヒョードルを倒せるかもしれないのは「ノゲイラ」か新星が現れるしかない気がするが・・・


・そうなってくると、現在のPRIDEを実力面で支えている「ヒョードル」「ノゲイラ」を発掘し、
 今年からまさにヒーローと呼べる新星を発掘しようとHERO’Sを開催し始めた「格闘王 前田日明」の存在は無視できない。


・初めてこの名前を耳にしたのは、意外にも某大手大学受験予備校の代々木ゼミナール
 私が空白(どころか本当は濃厚だったけど)の1年を過ごしていた時のこと。
 国語の現代文の授業で「何故・何が・具ぅ〜」という謎の言葉を連発する笹井という
 東大出身の講師の口からのことであった。
 失礼ながら、頭でっかちの人がその肉体の貧弱さゆえに
 そのコンプレックスの裏返しとしてのマッチョ好きという現象の一例かなぁなんて思うだけで、
 あまり当時は気にしていなかったが、TVBrosという雑誌に連載されていた「お笑い男の星座」を読み始め、
 未来ナースという番組で一気に吸い込まれていった「ビートたけし(北野武)」の弟子「浅草キッド」の
 格闘技好きの影響を受け、再び私は「前田日明」とめぐり合ったのである。前田日明については下記サイト参照。


 http://www.onfield.net/column/020101/kongetsu.html


・そして浅草キッド水道橋博士の日記1999年2月21日(前田日明引退試合の翌日)より転載する。

 「時は来た!」と、言うことで横浜アリーナへ。  この日に至る心境は『紙のプロレス』に書いた。  が、興味のない人には、いや、『紙のプロレス』を手にとらない人は、我々の言葉さえ、目にすることもない。  むしろ、前田日明の英雄さえ気付くことすらない。だもんで、珍しく、どシリアスな原稿なのだが、全文ここに掲載。  でも、『紙プロ〜15号』は買って読め!ここに書いたことって、オレにとっては、本音だけだ。  ついに「前田 vsカレリン戦」の時が来た。前田日明のラストマッチである。  今の我々の心境を橋本真也風に言えば、「時は来た!それだけだ!」か。  本当に「それだけ!」でいい!言葉は要らない。  (ちなみに橋本は今こそ!この台詞を言ってくれ!)  前田日明は評論されることが嫌いだ。本人が、揺るぎない自前の言葉をもっている。  だから、僕らは前田日明を評論しない。  言葉で前田日明に絡もうとする輩も、糸井重里さんによれば  「紙と前田が闘ったら紙が負けるからね。グシャおしまい」なのである。  我々はただただ心底、惚れ込んで、前田日明を熱烈に応援しているだけなのだ。  ただし「心底」なのだ。  実際、この一戦に向けて、  「前田vsカレリン戦への道・アキラのズンドコ応援団」  という連載コラムを場違いながら『フロムA』で毎週1年間続けさせてもらった。  ズンドコとは小林旭(アキラ)の「ズンドコ節」であり、♪×××××××××××って歌詞を踏んでいる、  格闘技マニア以外にも振り向いてもらいたかったのだ。  なんの役にも立たなかった我々だが「実現不可能」「消滅」と何度も噂された、  この試合が実現しただけでも決断したロシア側にも感謝を込めて「ハラショー!」なのである。  この連載、当初は「前田・ヒクソン戦への道」と題していたのだが、  今やヒクソンと言う「大きな幻想」「正体不明の怪物」に掻き回された後だけに、  カレリンと言う「大きな現実」「正真正銘の怪物」との闘いに意味を見るのである。  それにしても、このマッチメークの実現は、行き止まりの壁を一点突破する前田の面目躍如なのである。  「突破」と言えば「世の中とプロレスすることが好きな人」には確実に血湧き肉躍ることができる男の教科書、  自伝「突破者」(南風書房)を書いた宮崎学さん  (知らない人に説明すると迷宮入り寸前の戦後最大の事件として知られる、  グリコ・森永事件の犯人「キツネ目の男」の本人?いやそっくりさん?である。  そしてこの事件の犯人である自称「怪人20面相」と名乗る覆面レスラーの正体と当局にもくされた、  修羅場の数珠つなぎの札付きのヒールである)  が「突破者とは何か?」というインタビューの中でこう答えていた。 「宮崎学さんは、侠(おとこぎ)というものについて、繰り返しいろいろな書き方をされています。  〜誰もが逃げ出したいような局面で『俺いくわ』と、手を上げ、ボロボロにされて帰ってくる。  それを決意する美しい一瞬がある〜 と。そのときそれを決断させるのは何なのですか?」 「個々の心理的な構造は、僕にはわかりません。誰かがそのことをやらざるを得ない、  手を上げられるかどうかってことだと思うんだろうけれども、僕の場合でいえばですね、  むしろ手をあげる方が、手を上げられるよりは気が楽である、と。  しかしながら、もうひとつ、よく考えなければいけないものは、手を上げるという行為そのものが、  非常に現世的な、現実的な不利益を、その周辺にもたらすということなんですよね。  累々たる周囲の犠牲の上に、成り立っている行為であることは、確かなわけです。  それでも僕のような馬鹿は、常に手をあげなきゃいけない」   どうですか?お客さん!この言葉って臭いだろうか?いや古臭いだろうか?しょせん「昭和」だろうか? 全共闘世代だけに文字通り『昭和残侠伝』の高倉健さんよろしく「止めてくれるな!おっかさん!」なのか? 確かにこのフレーズだけなら、そりゃあ、これはかなりの自己陶酔だ。さらに「自己犠牲」こそ逆転した「エゴイズム」だ。 こんな言葉を発する人も、オレに酔い、実はオレのために他人と闘っているハズなのだ。 そういう意味ではカッコ悪い!カッコ悪いことこそカッコいい。 前田日明もよく口にするこの逆説は「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」 ってタイトルの早川義夫の60年代のアルバムからきているのだろうか? だけれども、そんなカッコ悪いことを口にすることができる男は二通りある。 言ってる本人が本当にカッコ悪い場合。そして言ってる本人が本当はカッコいい場合だ。 カッコ悪い人は何の実体もないまま、温度のない言葉、冷めたことを平気で言う。 それがカッコいいと思ってる。そういう実体のないカッコつけたことを言う。 それなら無口な方がいい。 本当にカッコいい人はシンプルにカッコつけず、こういうカッコ悪いことを言う ただし、ズバリ「何をしてきたか?」と問われた後に、こういう 「臭い」けど、いつまでも耳だけでなく、鼻に残る、胸に残る台詞を言う。 言葉は後付けだ。そう。何をやり遂げた人が、言葉を口にするのかだ。 宮崎学さんの修羅場の数々は、まず「突破者」を読めばいい。 要は自分が手を上げなきゃならない局面 を、大多数の無責任な観客の視線の中で、 舞台の上で、リングの上で、実生活の中で、劇的に作っている突破者がいるのだ。 世間が見守る中で、 ビートたけしは、何度、再起不能どん底から手を上げるのか? 辰吉丈一郎は、何度、ボロボロにされて帰ってくるのか? そして前田日明は? 彼らは「自己犠牲」が逆転した、大向こうを唸らせる「エゴイズム」の塊だ。 前田日明のような「馬鹿」が何度でも手を上げる瞬間を何度でも見届けることが、 リングを見つめるものの至福である。しかも、これは見納めだ! しかし、そういう「馬鹿」はどんなに損をしても、本物の「親分」となって迎え入れられる。 殿(ビートたけし)も前田日明も本当の意味で親分である。 前田日明ビートたけしとラジオで初めて対談した時。 前田日明は控室の我々に対する冗舌が一変して、寡黙に礼儀正しく、無心に話を聞いていた。 「格闘パンチ」って雑誌で作家の百瀬博教と対談した前田日明も実に神妙に聞き入っていた。 親分は親分を知っているのだ。  百瀬博教さんは、親分の条件について、 『俺にはこんなことできない、この人のためなら…』と心から思わせる、 男のホモっ気って奴が、体内から滲みでている漢(オトコ)でないと、 親分にはなれない。 その男のホモっ気って奴は、見る角度によってずいぶん違うと思うけど、 総括すれば『自分より断然男らしい』ってことだ。 『男らしい』ってのは何かと言えば、 『まさかの時にいかに男らしく振るまえるか』ってことだけ。 それは何事においても、人の何倍も我慢強いことしかないんだ」  と「不良少年入門」(光文社)の中で定義している。 前田日明は親分だ。観客の我々は子分である。 「凄い漢(オトコ)がいたもんだ!」と僕らは前田日明を語りたい。   「リーダーは周囲が認めたエゴイズムである」と語ったのは人類最強の男・カレリン。 負けを許さない、心に軍服をまとった男。彼の周りも死屍累々であろう。 自らを「長すぎたエゴイスト」と呼ぶ。   そのカレリンと親分が「エゴイズム」を賭けて闘う!我々に言葉はあるか? 心底、見届けるのみ!時はきた!それだけだ!! さてこの日、赤江くん、マキタ、二郎とともに。途中、篤くんをピックアップ。 14時半、試合開始。3Fのロイヤル・シートへ案内される。 クマさん(篠原勝之さん)、田代まさしさんと一緒。隣にザ・ハイロウズご一行。 マーシー(田代さん)とマーシー(真島さん)に挟まれた。 この日は『最強の男はリングスが決める』リングス旗揚げ当初の公約通りの大会だった。 最強の男は、やはり「人類最強の男」カレリンだった。 ただし、誰もいないリングを見ていて、オレにとっての 「人生最強の男」が前田日明だったことをしっかり確認した。 帰途、篤くん宅へ遊びに行く。久々の井子ちゃん。ウナギをご馳走になる。 帰宅後、WOWOWで前田引退試合ビデオで再見。再び、感傷の浸る。


・と長々と転載してしまったが、いろいろなことを再発見。


・「プロレス的」であることというテーマで書きたいと思ったルーツは、
 まさに浅草キッドがこの日記の中で書いている「世の中とプロレスする」という発想への共感であり、
 リスペクト以外の何者でもない、ということを思い出したのだ。


・そして「前田日明」という男の話の中で水道橋博士が出した「宮崎学」という親分肌の人物。
 この人物の名前を初めて耳にしたのもまた、某大手大学受験予備校の代々木ゼミナール
 私が空白(どころか本当は濃厚だったけど)の1年を過ごしていた時のことなのである。なんたる偶然!


 「八柏龍紀」という面白い日本史の授業をする講師が出版した本「戦後史を歩く―「明日」という時代への架け橋」の
 帯文を書いていたのがこの「宮崎学」さんだったのだ。
 さらに「北野武」が出演したバトル・ロワイヤルをインターネットで検索した結果
 「北野武」と「宮崎学」の対談を発見し、むさぼるように読んだのを思い出した。
 「正義を叫ぶ者こそ疑え!」本のタイトルであるが名言である。


 余談だが、八柏龍紀という人の出している「セピアの時代―転換期へのメッセージ」という本の
 これまた帯文を書いていたのが「鶴見俊輔」という人で、そこから数珠繋ぎをして
 「戦後日本の大衆文化史―1945‐1980年 (岩波現代文庫)」という本をこれまたむさぼるように読んだ。
 頭でっかちな学者からはこぼれ落ちて見えなくなってしまう大切なものを、
 大衆の持つ感覚を大事にし、それを媒介として世の中をみるという視点を私は「鶴見俊輔」から学んだのだ。


・また前田日明引退試合前の心境を書き記しているのが「糸井重里」であり、
 (http://www.1101.com/maeda/index.htmlを参照)
 その「糸井重里」を通じて「吉本隆明」という、大衆という視点を大事にするもう一人の人物の思想を経験したのである。  
 「悪人正機 (新潮文庫)」など。

 
・「数珠繋ぎ」という行為・現象、浅草キッドが星と星を結びつけ、そこに星座を見出すように、
 私もまた勝手に人と人を勝手に数珠繋ぎでつないでいき、それを自分の中で消化吸収していく。 
 その過程のことを私は「自分という現象の連続」と勝手に呼んでいるのである。