「就職活動」と「無限の可能性」〜村上龍「映画小説集」を読んで

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(今回の連続 飛ばし読み可)


社会人になって2年目がもうまもなく終わろうとしている。
そんな中、ちょっとした異動があり、3月からちょっと暇な時間が取れるようになったのだ。
約2年間、ほとんど休みも無く(←ちょっと言いすぎ)、本当に仕事が忙しい時は
一週間以上家に帰らなかったりするような生活をしていたので、毎日家に帰れて、
しかも大抵土日があるという生活を社会人になってから初めて経験することになった。
正直とまどいを隠せない(笑)
プライベートな時間を何に使おうかと試行錯誤している自分がいる。
果たして自分にとって本当に充実した時間の使い方とは何なのか?と小一時間どころでなく問い詰められているわけだ。
そんな中で「村上龍」の「村上龍映画小説集 (講談社文庫)」を読んで改めて気がついたことを書き留めておこうと思った。


(飛ばし読みここまで)


そもそも「村上龍」の「村上龍映画小説集 (講談社文庫)」という小説を初めて読んだのは、
就職活動を始めるちょっと前かそのあたりの頃で、
果てさていったいどんな仕事をしてこの先、飯を食っていこうかと真剣に考えていた頃だ。
「まだ何者でもない無力な自分」がそこにいて、
しかし同時に「何者かになろうともがいている自分」もそこにいたのだ。
そんな、まだまだ「フリーター」にも「ニート」にもなる可能性を秘めていた私にとっては、
13歳のハローワーク」がまだこの世に存在していなかったこの頃から、
「何を仕事にするか?」というところで「村上龍」から何かを学ぼうとしていたのだろう。


この「村上龍映画小説集 (講談社文庫)」は、村上龍の自伝的作品であり、そこで描かれている期間は、
ちょうど「69」で描かれた高校生活が終わり上京してから、
デビュー作「限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)(蛇足だが、原題は「クリトリスにバターを」だったらしい)」を発表し、
芥川賞を取り、小説家になるまでの間の出来事であり、
まさに「何者でもなかった頃」の「村上龍」の日常が描かれている。


当時、この小説に限らずほとんどの「村上龍」作品を読んでいた私が、もっとも影響を受けていたのは
「人生はサバイバルだ」ということである。生き抜くためには、現実問題として「お金」が必要である。
じゃあどうやってお金を稼いでいけばいいのか?
村上龍」いわく「自分にとって苦痛でないこと」で、
もっと平たく言えば、「自分のやりたいこと」で飯を食っていくのがいいんだと思った。
まーそりゃそうだ。かくして「自分のやりたいこと」を軸にした就職活動を行ったのだった。


脱線するが、「可能性」という言葉についてちょっと触れたい。
よく人には「無限の可能性」があるなどといわれる。
まあ「無限」というのはちょっと言いすぎっぽいが、私はこの言葉はキライではない。
でも「無限の可能性」という言葉には「罠」があると思うのだ。


当たり前だが、「可能性」というのはまだ実現していないから「可能性」なのだ。
私は昔、「無限の可能性」を追及していた、ように思う。
しかし、それではモノゴトは前に進まないのだ。
モノゴトを実際に前に進めようとすると、何かを切り捨てていかなければならなくなる。
平たく言えば、「選択」を迫られるのである。
なにかの「可能性」を追求して前に進もうとする時には、
同時に他の「可能性」をつぶさなければいけなくなるものだ。
だが、そうしていくことで「可能性」は、時として実現し、「現実」となる。
そして「無限の可能性」を追求し続けている限り、その「可能性」は、決して「現実」にはならないのだ。


話を戻せば、就職活動というのは、「無限の可能性」がいよいよ壁にぶつかるイベントだと思うのである。
「無限の可能性」を持っているということは、裏返せば、「自分はまだ何者でもない」「無力だ」ということなのである。
「何者か」になるためには「無限の可能性」と戦わなければならないのだ。
そこで大事になってくるのが、「自分の中の優先事項は何なのか?」ということである。
選択をするためには、自分の中で何が大事なのかを把握できていないといけないはずだ。
そんなことを思いながら、就職活動を行っていた気がする。


当時の私はもちろん、「やりたいことで飯を食っていきたい」と思っていて、
結果としては、幸運にも自分のやりたいことを仕事にできる就職先を見つけることができた。
村上龍」が「小説家」になったように、私も一応は「やりたいことで飯を食っていける」ようになる
スタートラインには立てたような気がしていたはずだ。
そして社会人になってからの2年間、ほとんど仕事ばかりの生活を送ってきた。
もちろんやりたい仕事をある意味ではやらせてもらっているわけでそれがそんなに苦痛というわけではない。
ただここでちょっと立ち止まってみると「今のままでいいのか?」という気持ちは正直どこかにある。
そんな気がしていたのだ。そして私は「映画小説集」を読み返した。


そして気付いたこと。それは、なんとなく「飼いならされていく自分」がそこにいるから違和感を感じているのだと思った。
昔「黒夢(現在は「sads」)」のボーカル「清春」がよく歌っていた。世の中には「奴隷」が満ち溢れている、と。
そして「××××××××××××××× ××××××××××××××××」と、歌っていた。
そんな感じだ。俺も奴隷にはなりたくないと思っていたはずだ。
でもやっぱりサラリーマンというのはなんだかんだいってぬるま湯で、
基本的にはやれといわれたことをこなしていればお金がもらえるという世界である。
仕事の内容がどうであれ、それはサラリーマンならそういうシステムなのである。


曲がりなりにもやりたいことを仕事にして飯を食えている、だから今までの生活のままでも一見いいような気がする。
でもそれはきっと嘘だ。入社する前までは、将来的にはフリーでもやっていけるようにスキルを磨こう
という意識が今よりもっと高かったはずだ。でも目の前の仕事に追われているうちに、
今のままでいいんじゃないか、と悪魔がささやくのである。
それは「村上龍映画小説集 (講談社文庫)」の中にでてくる、「お前は無力だ。あきらめろ」というささやきと一緒である。


村上龍 「村上龍映画小説集 (講談社文庫) ワイルド・エンジェル」より引用開始①)


「あきらめろ、と誰かに言われ続けているような気がしたよ、お前には何の力も無いんだ、あきらめろ、
と言われ続けていて、本当にあきらめるとものすごく楽になれるようだった、
どういうことがあきらめるということなのか、それもはっきりとはわからなかったが、
要するにイヤなことを受け入れるってことなんだろうなと思った。」


(引用①ここまで)


村上龍 「村上龍映画小説集 (講談社文庫) ワイルド・エンジェル」より引用開始②)


「いい?本当は誰だって行くところなんかどこにもないわけじゃないの、
そんなことを考えずにすむような何かをあんたは捜さなきゃいけないわけでしょ?
行くところがあるっていったって、たいていの人は、それは用事があるだけなのよ、
そこへ行けと誰かに命令されてるだけなのよ、兵士から大統領までそれは同じだと思うわ、
(中略)
あんたに才能があるかどうかなんて知ったこっちゃないけど、あんたは用事のない生き方をする人だな、と思ったのよ、
それをやってればどこにも行かなくて済むっていうものを見つけなさい、
それができなかったら、あんたは結局、行きたくもないところへ行かなければならない羽目になるわけよ」


(引用②ここまで)


そして俺の頭の中で「BLANKEY JET CITYブランキー・ジェット・シティ)」の「ベンジー」が歌う。
「××××××××× ×××××××××
 ××××××××× ×××××××  」


たとえやりたいことを仕事にしていたとしても、やれと命令されたことをただやっているだけでは
ある意味やりたくない仕事をやっているのと同じことになってしまうのだなーと改めて思ったのだ。
もちろんお金をもらっている以上やれといわれたことはやらなければならない。それは義務だ。
でもその日常に満足していてもいけないのだろう。


さて、社会人になってから初めて手にしたに等しい自分の時間。何に使おうかなっ♪
せめて試行錯誤し続けてやろうと心に誓ってみる。


(記事ここまで)


☆上記の記事は歌詞の引用を削除した不完全版になります
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