自分という現象の連続〜本当の自分というという幻想〜

「自分という現象の連続」という言葉が好きだ。
なので、そのタイトルでつれづれなるままに日記を書き始めてみる。

この言葉を知ったのは、村上龍の「すべての男は消耗品である (集英社文庫)」を読んだ時だったはずだ。


すべての男は消耗品である (集英社文庫)

すべての男は消耗品である (集英社文庫)


せっかくなので読み返してみる。すると本当は「自分という現象の蓄積」だった(爆)
まあいいや、懲りずに話を進めよう。

そもそも村上龍の中では「自分という現象」とは、「三浦雅士」という人の「私という現象」というのがもとになっているようであるが、その本は読んでないのでとりあえずおいておく。


私という現象 (講談社学術文庫)

私という現象 (講談社学術文庫)


村上龍は、本の中で次のようにまとめている。

(引用開始)
すなわち、人間には「自己」という確固としたものなどなく、自分という現象の蓄積でしかあり得ないということ。そして、自分という現象の蓄積というのは、つまり、自分の中に自分でも制御不可能な何人もの自分が、いるということ。
乳児の頃の、幼児の頃の、六歳の、十歳の、十七歳の、自分がいて、それらがせめぎ合いながら(言ってみればそれぞれ他人として)現在の自分を形造っているわけである。
(引用ここまで)

とまあ、本文中では、これが恋愛関係と信密度のテーマのくだりでまとめられている。

これを読んでなるほどなあ、と自分の中でかなりしっくりきたと同時に、
勝手に発展的な解釈をしたのを覚えている。


それは、「本当の自分」などというのは幻想にすぎないのではないかという仮説である。
つまり、「本当の自分」など存在せず、「その場その場、そのときそのときの、行動、発言そのものの雑多な集合体が自分である」という発見である。
これはありがたい発想であり、時には冷酷な事実だと思う。

村上龍がいうところの時間軸の蓄積もそうなのだが、
人って(少なくとも自分に関しては)自分ひとりでいるときと、学校、あるいは会社の中にいるときと、さらには恋人といるとき、友達といるときとでは、程度の差こそあれ、
ある程度、その場面場面で、違う自分の一面を出している、あるいは結果として違う自分を演じているのではないか?ということが、むしろ自然なことだと感じられるようになったのである。

自分がいろいろな面を持っていることは、「どれがホントウなのか」ではなく、「どれもホントウ」なのである。


これは現在の日本の世相に照らし合わせても、特に若者層にとって有用な発想だと思う。

浜崎あゆみの流行以来、若者の間で、「自分探し」なるものが流行っている。
(ちなみに浜崎あゆみのせいではない。あくまで彼女に勝手に感化された人たちがいるということに過ぎない。念のため。)


A Song for ××

A Song for ××


その結果、「ホントウの自分」をさがそうとするあまり、自分というものがよく分からなくなってしまい社会と折り合いをつけられなくなっている若者が増加しているのではないか?という思いがあるのだが(例えば、フリーターやニートの増加、ひきこもり、パラサイトシングルという現象など)、この状況を打破するのにこの発想が使えるのではないかと思うのである。


自分というのは探すものではなく、せいぜい普段どんな行動を取っているか、どんな話をしているかをせいぜい発見して、それを蓄積していくものに過ぎないのである。

今の自分や状況がイヤで、仮に新しい「ホントウの自分」を探したいのであれば、過去の自分の歴史を紐解いて迷路にまよい込むのではなく、これからいわゆる「ホントウの自分」であればとるであろう行動や発言を蓄積していくほかに方法に、「ホントウの自分」とやらを発見する方法は無いのではないだろうか?という発想にならざるを得ないのではないだろうか?

これは、現在の特に若者層の閉塞感を打ち破るヒントの一つだと私は個人的に思うのである。

こんな大それたことを書くつもりはなかったのだが、なんか論が展開してしまった。マズー
次回はもっと軽いネタを書こう。とりあえず今日はここまで。