園子温の「非道に生きる」の意味とは?〜村上龍と園子温の意外な共通点を発見!


まず、はじめに。


ドミナント・モーション(=主題反復)という英文の読解法がある。


その概念を実生活に応用し、「数珠つなぎ」をかけあわせる。


すると、そこには「発見!」が生じることがある。


(「ドミナント・モーション(主題反復)」×「(人と人との)数珠つなぎ」=「発見!」)


で、そうなった時は、SPECの当麻風に言えば、


めちゃくちゃ「高まる!(興奮する・ワクワクする)」



そうすると「発見したこと」を誰かに「伝えたく」なる。


それが「表現衝動」である。


これを繰り返して行くのが「私の人生=自分という現象の連続」なのかもしれない。


何を言っているのか、さっぱりわからないと思うが、この長い文章を最後まで読んでいただければ


意味はわかると思う(信じたい)。でも誰も最後まで読まないと思うので、


最初に結論を書く。


・映画監督の園子温監督がいう「非道に生きる」とは、村上龍の「用事のない生き方」と同じ意味であり、


 それはさらに甲本ヒロトがいう「飽食の果ての飢餓」とも同じ意味であり、


 もっといえば、水道橋博士のいう「世の中とプロレスする」とも同じ意味である。


彼らは、それぞれ「違う表現」で何かを訴えかけているが、実は全て「同じ意味」である。


つまり、彼らを数珠つなぎしてみると、


そこに「ドミナント・モーション(主題反復)」が発生することを発見したのである。


これは「世の中で本当に価値のある情報は(無意識で)シンクロし、共有される」


という私の仮説の検証過程でもある。


もっと、平たい言い方をすれば、一見関係なさそうな「園子温」と「村上龍」と「甲本ヒロト


さらには「水道橋博士」の意外な共通点とは何か?という謎が解けたということである。


今回はまとめきれていないが、記録することを優先し、日記形式で取り急ぎアップする。


以下は、日記であるが、大事な日記である。


今日は、2014年2月22日である。


シネマヴェーラ渋谷」という東京・渋谷の円山町にある映画館に行った。


渋谷の円山町といえば、雑然とした街「渋谷」の中でも、最も猥雑な場所、


平たくいえば、ラブホテル街のことであり、


そのラブホテル街のド真ん中に、目指す映画館はあった。


いろいろな意味で、その映画館周辺の風景は、私にとって懐かしい場所でもあり、


様々な思いが込み上げてきたのも事実だが、今日はその話はしない。


そこで2本の映画を見た。2本とも「園子温」監督の映画である。


1つは「桂子ですけど」(1997年2月8日劇場公開)


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監督: 園子温 - 出演者: 鈴木桂子, 内田栄一


※冒頭で、「(亡くなった実在するシナリオライター)内田栄一に捧ぐ」とある。


(以下、映画の内容)


ウエイトレスをしながら、東京都中野区大和町でひとりで暮らしている


21歳の鈴木桂子は、あと3週間で22歳の誕生日を迎えようとしている。


彼女の宝物は、すでに亡くなってしまった父親の遺骨(これが内田栄一だ)だった。


1日が24時間であり、確実に1日は終わり、明日がやって来ると改めて考えた桂子は、


21歳最後の3週間を着実に生きようとするのだった。


なんでもないことの連続だが、大切な毎日、毎時間、毎分、毎秒。


そこに息づいている自分を、全部記憶したいと彼女は思っている。


月、火、水、木、金、土、日、そしてまた月曜日がやってきた。


やがて、桂子はもうすぐ22歳の誕生日を迎えようとしている。...


「男の花道」で1986年PFFグランプリを受賞した園子温が、若い女の子の日常を静かに描く。


これまでも“時間”というテーマに取り組んできた園が、


1時間1分1秒という上映時間の中で、斬新なアプローチによる独特の演出を見せている。


(映画の内容ここまで)


冒頭で、「内田栄一に捧ぐ」とあるだけあって、個人的な映画だった、という印象。


園子温と内田栄一の関係を調べてみないとなんとも言えないのだが、


園子温の中で生まれた、今は亡き内田栄一に、どうしても伝えたいこと、あるいは「決意」を


初期衝動に導かれるまま、描き切った作品という印象。これ以上とやかく何か言うのは「野暮」。


ちなみに、ここでも一種の偶然に近い「シンクロニシティ」を感じた。


この映画の主人公「桂子」とほとんど同じ行動を取っている、


ある有名な日本人女性がこの世に存在していることに気づいたのだ。


それが誰なのか?を説明するには、この映画を見て何を感じたか?という前置きが必要だ。


映画を見た一般人の100人中99人が、桂子に感情移入できない


(つまり、何やってるんだろうこの子は?と思う)と思われる(園子温ファンは除く)のだが、


100人中1人ぐらいは桂子に感情移入どころか、


桂子を見て「あっこれ私だ!何で私のこと知ってるの?」と思う人がいるのではないか?


その違いは、その人の人生に「切実さ」があるか?ないか?それだけである。


(別に「切実さ」がある=いい人生、「切実さ」がない=ダメな人生、と言っているわけではない。


 ただ、事実として、「切実さ」がある人生を送っている人と、「切実さ」がない人生を送っている


 2通りの人がいる、と言っているだけである。誤解のないようにお願いします。)


切実に人生を生きている人は、桂子のやっていることに理解を示すだろう。


ちなみに、この映画は20世紀に作られた作品であるが、


21世紀になってから、まるで「桂子」そのもののように人生を歩んでいる人物がいる。


ズバリいう。それは「中川翔子」という日本のアイドルである。


彼女の生き様は、まさに、この映画の「桂子」そのものだ。


「大切な毎日、毎時間、毎分、毎秒。


 そこに息づいている自分を、全部記憶したい」


この「切実な」「欲求(衝動)」を現実のものとすべく、


中川翔子は、日常で起きた、ありとあらゆることを


ブログに「生きた証(あかし)」として刻んでいる。


多い時は、1日で231回もブログを更新している。


やっていることは、まさに「桂子」そのものである。


ちなみに、どうでもいいシンクロだが、そんな中川翔子の母親の名前は


なんと!「桂子」なのである。なんたる偶然であろうか。こわいこわい。


シンクロ現象は、どうやら一度発生すると、連鎖を起こすようである。


しょこたんブログ


http://ameblo.jp/nakagawa-shoko/


しょこたんぶろぐ貪欲デイズ

しょこたんぶろぐ貪欲デイズ


もちろん、中川翔子は、この映画「桂子ですけど」を知らないだろう。


しかし、それでも、世の中で本当に価値のある情報はシンクロし、共有される。


これこそが、私のいう、人と人を、(私が勝手に)数珠つなぎした(つなぎ合わせた)時に


発生する「ドミナント・モーション(主題反復)=同じ意味のことを違う形で言っている」である。


話を元に戻そう。これは、日記だったはずだ。



私は、園子温の映画を見にいった。


一本目の映画は「桂子ですけど」だった。


二本目の映画は、あの満島ひかりが主演したのにもかかわらず、なんと公開すらされなかったという、


まさに幻の未公開作「Make the Last Wish」(2008年製作)。



監督:園子温 出演:満島ひかり安藤サクラ倉本美津留


内容的には、実際に行われた「アブリル・ラビーン妹オーディション」に、


愛のむきだし」出演直後の満島が参加する様子を、


ドキュメンタリーとフィクションを織り交ぜ撮影した。といったものなのだが、


なぜ、未公開作品になってしまったのかというと…


(映画.com http://eiga.com/news/20110122/3/ より引用開始)


ウェブの動画サイト配信用に企画された同作。


あるプロデューサーが「アブリル・ラビーン原作のコミックの権利を持っている」と


放送作家倉本美津留に持ちかけ、倉本が園監督に演出を打診。


実際に行われた「アブリル・ラビーン妹オーディション」に、


愛のむきだし」出演直後の満島が参加する様子を、


ドキュメンタリーとフィクションを織り交ぜ撮影した。


しかし、ふたを開けてみると、企画を持ち込んだ“プロデューサー”が


ビーン側と権利契約を結んでいないことが判明。


「Make the Last Wish」は完成を待たずに、お蔵入りの憂き目を見た。


園監督は「基本的に未完成な状態。オーディション自体は演出なしの“ガチ”勝負だった。」


「仮に満島が優勝したら、(本当に)ラビーンの東京ドーム公演(2008年)の前座を務める予定だった」


といい「満島にとっては(以前在籍していた)Folder5以来のステージ歌唱になるはずだった。


それはそれで面白かったかも」(と語っている)。


(引用ここまで)


まあ、映画の内容はさておき(もちろん満島ひかりは良かったけど)、


個人的に気になったのは、「倉本美津留」という人物。


今は、丸くなっちゃったけど、かつて「笑いの天才」の名を欲しいままにしていた


松本人志ダウンタウン)の周辺にいる(いた?)人物なんだよね。


ダウンタウンのごっつええ感じ」の構成作家のひとりで、


「一人ごっつ」では大仏として声の出演もしていた、知る人ぞ知る人物。


ダウンタウンDX」のトスポくんの声をやっている人でもある。


おぼろげな記憶では「自分はジョン・レノンの生まれ変わりだ!」って公言してはばからない、


放送作家の人だったと思うけど、ホームページ残ってないかな…と探してみると…


あった、ありましたよ。バージョンは変わっちゃってるけど…


倉本美津留 OFFICIAL SITE


「なぜオレがビートルズの続きをやることになっていると感じているのか?その理由」


http://www.ninpop.com/ninpop/mitsuru/prf/beatles.html


どうやら、倉本美津留は「ジョン・レノンの生まれ変わり」ではなく、


ビートルズの続きをやることになっている人」らしい。


流し読みしたところ、普通の人が読んだら、ただのキチ●イって思われそうだけど、


個人的には、「この人の気持ち、とてもよくわかるわ〜」という感じ。


そして、この「倉本美津留ビートルズの続きをやることになっているんだ論」と


今回の主題は、きれいにリンクする。


ようやく、ここからが本題である。


今日は、(こんなに書いておいてなんだが)上の二本の映画はどうでもよかったのである。


二本の映画の上映が終わったあと、2人の人物が登場し、トークショーが始まった。


2人の人物とは、園子温監督と水道橋博士である。


今日、わざわざ、こんなラブホテル街のド真ん中まで足を運んだ目的は、このトークショーだった。


しかし、トークショーとは名ばかりで、園子温監督は酔っぱらっており(というよりも、この人が


シラフな瞬間などあるのだろうか?)これ以上トークを進めるのは困難だと判断した博士が、


トークショーはまだ序盤だったにも関わらず、足早に一つのFILM(映像)を流し始めた。


その映像とは「園子温が芸人になったその瞬間までを追いかけたドキュメンタリーFILM」である。


(会場にいた人ではなく、これを今読んでいる人の)大半が「ぽか〜ん。」であろう。


何を言っているのかわからないだろう。「え?園子温って映画監督やってる人だよね?」


「芸人になったってどういうこと?」「意味わからないんですけど…」という声が聞こえてきそうだ。


え〜と、すごいざっくり言うと、2013年に園子温監督が「もう映画監督飽きた。俺芸人になるわ」


って言った(園子温の『芸人宣言』)。で、それを受けて、水道橋博士(本名:小野)と園子温の2人が


ジョン・レノンの息子であるショーン・レノン⇒小野・ヨーコの息子だから小野ショーンでもある


 に引っ掛けて)「小野しおん」というお笑いコンビを結成し、


2013年4月30日に『ザ・水道橋in座・高円寺vol.1〜園子温芸人デビュー』という


お笑いのライブをやることになった。で、映画監督としては一流の仲間入りを果たしたが、


芸人としては、当然駆け出しのペーペーである、園子温監督が舞台デビューを果たすまでの


リアルなドキドキ感を追っかけたドキュメンタリー映像が流れたのである。


結局、トークショーはほとんど行われず、このVTRの終了とともにトークショーは終わりを


告げたのであるが、そのVTRの中で、私は「はっ!」と気づかされたことがあったのである。


それは、園子温監督がいう「非道に生きる」とは、そういう意味だったのか!という発見である。


VTR中に出てきた「非道に生きる」という意味の説明をそのまま引用したいのだが、


インターネット上には見当たらない。(でも本が出てる。買えってことか?)


非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)

非道に生きる (ideaink 〈アイデアインク〉)


しょうがないから、雰囲気だけでも自力で説明を試みる。


非道に生きる」という言葉の響きからは、


「道にそむく」=「極道的に」=「ワルに」=「人の道を外れて」「生きる」という


ような印象を抱かせるが、そうではない。「グレることではない」。


そうではなくて「他人が敷いたレール(=道)だけは、俺は絶対に歩まないぞ!」という


決意宣言だったのだ。


この「非道に生きる」の意味を知った時に、私の頭の中でいろいろなものが氷解し、謎が解けたのだ。


なぜ私は園子温に興味を持っているのか? なぜ水道橋博士園子温にこんなに関心を抱くのか?


なぜ倉本美津留園子温に興味を持ち、映画「Make the Last Wish」の演出をお願いしたのか?


すべては、「他人が敷いたレール(=道)だけは、俺は絶対に歩まないぞ!」=「非道に生きる


という園子温監督の「姿勢・思想・生き方」に共鳴・共感しているからだったのだ!


と私は興奮しているのだが、理解してもらうには、ちょっと説明が必要かもしれない。


まずは「なぜ私は園子温に興味を持っているのか?」の説明である。


私はもともと村上龍(のような人)になりたかった人間である。


ちょっと長いが、「村上龍映画小説集」から引用する。


村上龍映画小説集 (講談社文庫)

村上龍映画小説集 (講談社文庫)

 

村上龍の「村上龍映画小説集  ワイルド・エンジェル」より引用開始)


「いい?本当は誰だって行くところなんかどこにもないわけじゃないの、


そんなことを考えずにすむような何かをあんたは捜さなきゃいけないわけでしょ?


行くところがあるっていったって、たいていの人は、それは用事があるだけなのよ、


そこへ行けと誰かに命令されてるだけなのよ、兵士から大統領までそれは同じだと思うわ、


(中略)


あんたに才能があるかどうかなんて知ったこっちゃないけど、


あんたは用事のない生き方をする人だな、と思ったのよ、


それをやってればどこにも行かなくて済むっていうものを見つけなさい、


それができなかったら、あんたは結局、


行きたくもないところへ行かなければならない羽目になるわけよ」


(引用ここまで)


これを読んだ、当時19歳だった私は、「用事のない生き方」をするべく、


「それをやってればどこにも行かなくて済む」ものを見つけるために生き続けてきた。


今でもそうだ。そして、この村上龍がいう「用事のない生き方」とは、園子温の「非道に生きる」と


表現(言い方)が違うだけで、意味は全く同じである。


この2つの表現が言っていることが同じだ!というのが、私にとっては大発見である。


人と人、つまり「村上龍」と「園子温」を数珠つなぎして、その結果、


ドミナント・モーション(主題反復)=同じ意味のことを違う形で言っている」ことを


発見する(体感する)。これはめちゃくちゃ「高まる(興奮する・ワクワクする)」ことなのである。


だから、私は、園子温監督に興味を持ったのである。あ〜すっきりした。


この「快感」はきっと「理系の人が難しい数式をこねくり回したあげく、証明にたどりついた時の


快感に似ている」と私は推測する。


続いて、なぜ水道橋博士園子温にこんなに関心を抱くのか?の説明である。


水道橋博士には、甲本ヒロトというロック歌手の同級生がいる。


そんな博士が甲本ヒロトに感銘を受けた一節がある。


私もすごい好きなくだりなのだが、一言でいえば「飽食の果ての飢餓」である。


(博士の悪童日記 http://blog.livedoor.jp/s_hakase/archives/110694.html より引用開始)


(以下は、インタビューに答える甲本ヒロトの発言)


人生には意味ないよ。いやぁ、ほんとそうだよ。だってヒマつぶしじゃん。


ヒマなんだよ、みんな人生80年もいらないんだよ。


3日もあれば終わるんだ、やることなんて。


パッと起きて、『ああー、世の中かー・・・死のっ』みたいな(笑)


十分なんだよ、それで。何にもやらなくたっていいんだ、人間。


それなのにさ、80年ぐらいも生きちゃうんだよ。


メッチャヒマだよね。ヒマつぶししなきゃならんのよ。


そのヒマつぶしとして、月に行ってみたり、


円周率割り出してみたり、コンピューター作ってみたり、


ビル建ててみたり、大金持ちになってみたり、


大統領になってみたりするんじゃん。


何か全部、ヒマつぶしでしょ。


意味なんかないんだ、楽しければいいんだ。結局のところ、


何が目的なんだよっていうと、


最後の答えは、『お前は正しい』って言って欲しいだけなんだよ。



僕はいろいろなところで人に聞かれるんだよ。


『楽しきゃいいのか?』って。


いいんだよ。そのかわり、楽じゃないんだよって。


漢字で書いたら同じじゃんって。


でもね、楽しいと楽は違うよ。楽しいと楽は対極だよ。


楽しいことがしたいんだったら、楽はしちゃダメだと思うよ。


楽しいことがやりたいと思った時点で、楽な道からはそれるんだよ。


その人は。だって、おおこれもやりたいって、


楽しいことを実現するためにはもう忙しいってなるじゃん。


寝てる暇なんかねーよって。


楽しようと思ったら、楽しいことはあきらめなきゃだめだね。


ただ、生活は楽なほうが絶対いいと思うよ。


でも人生は楽しいほうがいいじゃん。



余裕がなきゃ駄目だよ。


だから、僕は、飽食の果ての飢餓だと思う。


飽食の果ての飢餓が、ロックンロールにおけるハングリーってやつでしょ、


お腹が空いたハングリーとは違うぜ。


ハングリー精神っていうのと、貧乏は関係ないよ。


貧乏な人がハングリー精神っていったら駄目だよ。


まず金稼いでから言えよ。


うん、ハングリー精神っていうのは、


満ち足りてる人の中に芽生えるものだよ。


着るものもある、家もある、ギターだって買える。


だけどさ、足りねぇんだよ、


これが、っていうのがロックンロールじゃん。


うん、貧乏人にはロックンロールはできないよ。


(引用ここまで)


この甲本ヒロトがいう「飽食の果ての飢餓」あるいは


「楽しい人生を送るために楽(らく)をするのをやめる」


っていうのは、これまた園子温の「非道に生きる」と


表現(言い方)は違うけど、同じ意味(ドミナント・モーション=主題反復してる)んだよね。


だから、水道橋博士園子温にこんなに関心を抱くんだと思う。


もちろん博士自身が「世の中とプロレス」する人が好きで、


園子温ほど「世の中とプロレス」してる映画監督はいないから、とも言えるんだけど…。


この「世の中とプロレス」するっていうのも、ある意味「非道に生きる」ってことだしね。


そして、「倉本美津留ビートルズの続きをやることになっているんだ論」っていうのも、


園子温の「非道に生きる」と表現(言い方)は違うけど、


同じ意味(ドミナント・モーション=主題反復してる)。だから共鳴するわけ。


ということで、今日はただただ、「非道に生きる」の意味を知った時に、


私の頭の中でいろいろなものが氷解し、謎が解けた、その瞬間を記録しておきたかった、


ということに尽きる。


いや〜、今日ほど、ブログのタイトルを「自分という現象の連続」にしておいて


良かったと思った日はない。


もし、最後までお読みになられた方がいらっしゃいましたら、


駄文におつきあいいただき、ありがとうございました。


本日はここまで。